トピック: 3-4 吉田山の春
鴨川の桜並木のつぼみもまだ固く、
祇園から河原町へと歩く人たちの後ろ姿も、
四条と三条のあいだの河原に腰を下ろすカップルもまだ少し縮こまって、
だけど春待ち人たちはみなどこか幸せそうだった。
聖護院を通り、黒谷の山門のどんつきを細く左に曲がって畳屋を過ぎ、
長い急な坂道についに自転車を押しながら、
少し汗ばんで、
頬を真っ赤にしながら水槽の南禅寺豆腐が美味しそうな
小さな豆腐屋の前を過ぎて上がって行くと、
真如堂の朱の門の前に出た。
門の前で電信柱のように突っ立っていたスティーヴンが
ポケットから出した細い手で「Hi!」。
あたしも「hi !」自転車を置くと、
スティーヴンと黒谷へと歩いた。
お椀の中でもこのあたりは時代が止まった、
お侍や僧都が重い木の門を開けて出て来そうな
砂利の小径だった。
塀の合間を吹き抜ける春風がまだ頬に冷たかったけど、
これでこの街のジンジン底から凍える冬ともお別れだと思うと、
それだけであたしはなんだか伸びをしたくらい、
うれしい気持ちになれた。
誰もいない広い黒谷の境内を抜けて、
墓所のいちばんてっぺんに腰を下ろし、
お椀の底の、ゆっくりと変わりゆく街を見下ろしながら、
煙草を巻いたスティーヴンが、リアリティ、ああ現実ってね、
そう話し出すのが、
あたしたちのいつものパターンだった。
「もうすぐ桜が咲くね、ここから見下ろす桜色の街、大好きよ」
「Sakura...yeah, ねえ・・・、Life is like a movie、だと思わない?」
突然、スティーヴンが、ぽつり、そう言った。
人生は映画みたいだって?
灰色雲があたりの山々を覆いはじめ、
あたしにはまるでなんのことかわからなかったし、
どう答えていいのかもわからなかった。
彼のポケットにはいつもみたいに、煙草と、
それを巻く薄いノスタルジックな紙はなかった。
ポケットに手を突っ込んだまま、
どこか遠く、
スティーヴンの孔雀の羽のまつ毛は、
西の向こうの山の、もっと遠く彼方をみていた。
Ah, the Reality...
それからあたしたちは腰を上げ、
it’s going to rain,
let’s go back...
真如堂の鐘つき堂まで歩いたところで、
しとしと冷たい春先の雨が降り出した。
どこかの誰かがおれの人生を撮っている、
鐘つき堂の屋根の下でスティーヴンがまたそう言った。
それって、どういうこと?
いったいなにが言いたいの?
あたしはまた、困惑した。
「i don’t know...」
「Well, おれだってわからない、けど・・・、」
いつもおちゃらけたスティーヴンが、
いつもじゃない表情で、
ちょっと一差し指を空に向けて、
「ほら、上にいる、誰か、それ、監督」
あたしは鐘つき堂の柱にもたれながら、
なにも言わなかった。
ただ雨音だけが響いていた。
そうして、スティーヴンは、
あたしを、見た。
「I am going to ask you something」
それがなんのプロポーザルであろうと、
そしてまた、雨音。
「I will be a very lucky man if you will stay with me.
and it is okay if you choose not to stay with me as well...」
どうしてか、あたしの答えはもう決まっていた。
なぜかそこにひとつの迷いもなかった。
「No」といえば、きっとそんな自分を後悔する、それだけはわかっていた。
雨音が一段と激しく響いた。
「I may have a cancer....」
癌、
かも知れない、
雨音の合間にそう聞こえた。



