トピック: 5-1 あるがまま 

この島に来てからもう3週間になろうとしていた。
だけどそれは長い長い時間のようで、
でもまるでほんの一瞬のようで、
この家に流れるスピードはアウトサイド・ワールドとはちがっていた。

あのロボットみたいで無関心なF病院の医師の話が本当なら、
スティーヴンがあたしたちと一緒にいられるのは
長くてあとひと月もない。
天井のない黒い石のシャワールームで、
蛇口から流れ出るお湯と溢れて来る涙がぐちゃぐちゃになって、
見上げたハワイの青い空は滲んだ水の中だった。
ひょっとしたら明日にだって 
彼の肉体は終焉を迎えるかもしれない。
「あと1ヶ月、長くて2ヶ月」
誰も口にはしなかったけど、
この呪文のような言葉は日に日に重さを増して、
みんなで夕方に家の前の海へ泳ぎに行っても、
あたしはもう海に入らなかったし、
岩の上に座ってぼんやり、
夕陽が海の向こうに沈むのを眺めていた。

「ハワイ島で、友だちに囲まれてなら・・・」

スティーヴンのその一言でJJは長く勤めたD大学を辞めて
あたしたちを驚かせ、
ロランは一人息子を別れた美加子さん、
ロランのこのハワイ行きに大反対する、に預けてまでも
この島にやって来たとはいえ、
クルーとして同じように参加したあたしにだって
「スティーヴンの死」という誰もが初めてのこのイベントが
どこに向かってゆくのかわからなかったし、
あたしのこころはいつも行ったり来たり。
この島に来てから2階のスティーヴンがなにを思い、なにを考え、
どこにいるのか、あたしにはまったくわからなかった。
いかせてあげなくちゃ、だけどいかせたくない。
どうしてもここで生きてほしい。
まだ37なのに、まだ早すぎるのに。
だけどそれは、あたし自身のため?
スティーヴンのため?
目の前から彼が消えてしまうなんてこと、
「わかりましたサヨナラ、have a wonderful trip to heaven!」なんて、
そんなことさらさら飲み込めない。

「執着するな、let it go.
波に逆らうな、ride the waves. 波に乗るんだよ」
 
ロランはそう海を指差して笑ったけれど、
押し寄せては引く波に飲まれて方向を失いもがいてるあたし。
岸がどこで空がどこなのか、
そこに辿り着く泳ぎ方も波の乗り方もわからなくて、
溺れそうだった。

スティーヴンとJJが夕食前の散歩に出かけると、
ロランが庭越しにあたしを呼んだ。
「it’s for you」
受話器を渡すと軽くウィンクして庭へ出ていった。
「hello?」
「ヘロッ、ユー、アキラッ?ヘロッ」
すぐにインド人とわかる舌足らずの英語で、
ロランの知り合いだというカルカッタのドクターだった。
「キミッは、いまどこにいますかなッ?」
禅問答。
辺りの熱気を天井のプロペラが引っ掻き回している簡素な診察室で、
白衣に大きく深く黒く輝いた瞳、
黒い針金のような毛が少しグレーになりはじめた、
話す時に頭をこけしのように左右に揺らす癖のある初老のインド人ドクター。
そんな姿を思い浮かべながら、あたしは言った。
「彼の生に執着(しゅうじゃく)してはいけないって」
執着、ディタッチド、その言葉にドクターは優しく笑った。
「いんですよ、無理しないッ、ね。
聞き分けのよい子ッにならなくてもいい、ねッ。
今のキミッを、まずそれ見つめてごらんなさいね、
そのままッを、ね?」
あたしはなにもかも見透かされて、
少し肩の力が抜けて、そして急に自分が恥ずかしくなった。
「スティーヴンには食、水、熱ッに注意して、
タイチー*をして自然から”気ッ”を取り入れないさいとね、
からだの中流れるエネルギーッの総入れ替えッを、
そう伝えてください、ね?
ああ、それから女性にも、
ああ、それとにんじんジュースにも注意することッね。
どちらもうまいが今のスティーヴンには灰汁が強すぎる。
それじゃあ、がんばりなさいッね」

受話器を戻すとあたしは庭に出て、
海の向こうへと朱色に染まってゆく空をじっと見つめている
ロランの横に寝転んだ。
ロランはなにも聞かない。
空は
なにもしないのにひとりでに変わっていく。
あたしもそんな風になれるのかな?
エンジェルがシャララーン、風に舞って、
波の音にふと、あたしは島に来る前の日のことを思い出した。

スティーヴンとあたしは最後の散歩に出かけて、
鴨川の河原に座りながら
葵橋の袂のおまんじゅう屋さんでテイクアウトした豆もちを手に
彼が言った。

「おれがここからいなくなったあとも、
鴨川の流れに、流れる雲に、空に、河原の野草に、海に、
Akiraが話しかければおれはいつでもすぐそこにいるから。
遠くからいつも見ている。
だから、心配することなんてない」

あたしを安心させるための言葉?
それとも本当にスティーヴンはそんなことを?
雪解けの豊かな水の音に、
春先の鴨川はまだ風が冷たかった。
桜並木の下をジャージ姿の学生たちが大きなかけ声とともに北山の方へと走って行った。

「it is going to be all right, Akiraサン」
「うん、i hope so......stevenさん」

あたしは首に巻いた、
つい数週間前にバンコクで買ったシルクの紺色のスカーフを
きゅっとたぐり寄せて、
豆もちをのどの奥にぎゅっと押しやった。
なんで豆もちなんか買ったんだろ、
桜餅にすればよかったのに。
それからふたりでまた自転車で吉田山に帰った。

吉田山に戻ると、
友だちのマリーが10センチほどの
小さな素焼きのお地蔵さんを
「good luck charmよ」と持って来てくれた。
ふんわりやさしくほほえむ
ちょっと火星人みたいなお地蔵さん。
手に包み込むと、
なんだかふしぎと気持ちが落ち着いた。

壁なしのこの家に来てすぐにあたしがしたこと、
2階へ上がったところの踊り場の
エンジェルの下にそれを置いて、
萩の花に似た濃い桃色の花をその横に添えてあげた。
お地蔵さんは海の風と天国の音にとてもうれしそうだった。

西の空が真っ赤に燃えている。


*タイチーとは太極拳のこと。