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ゴルトベルク変奏曲といえばグレン・グールド。という傾向が、普段クラシック音楽をそれほど聴かない聴取者を中心に、ここ20年くらいの日本であるらしい、ということに最近気がついた。音楽系ではない雑誌(ファッション誌など)で、グールドの演奏を絶賛している記事に何回か出会っている。わたし自身、バッハのこの楽曲を最初に聴いたのはグールドの演奏であった。そのときの印象が鮮烈だったこともよく覚えている。
ゴルトベルク変奏曲(「ゴールドベルク」など様々なカタカナ化があるようだが、原語はドイツ語でGoldberg。もし英語読みするなら、ゴールドバーグとなるのではないか)は、バッハの晩年の作品で、ピアノの前身である鍵盤楽器(ハープシコードのような)のために書かれた音楽である。短い歌(アリア)が最初にあって、その変奏曲が30曲次々に繰り広げられてひとつの作品となっている。グレン・グールドというのはカナダのピアニストで、ピアノ演奏における特異な才能に加え、ラジオなどメディアとの関わり方や、伝えられているさまざまな奇行や性癖でも有名。日本ではかなり人気のあるピアニストだ。グールドはもちろん、他の作曲家や他の楽曲も演奏しているが、最も知られているのがゴルトベルクにおける演奏だと思う。そしてゴルトベルクにとっても、グールドは特筆すべき演奏者なのだろう。
その長年に渡るゴルトベルク=グールド路線に、異変が起きた(と、わたしは感じた)。まったく違った地質地形から現れた不思議な演奏を聴いたのだ。高橋悠治(作曲家、ピアニスト)によるゴルトベルクである。このCDを買ったのはそんなに前ではないと思っていたが、発売が2004年11月なので、多分発売の少し後、2005年あたりから聴いていたのではないかと思われる。高橋悠治は1938年生まれなので、1932年生まれのグールドと実はほぼ同世代に当たる。グールドは50歳という若さで80年代初頭に死んでいるので、過去の人というイメージがあるが生きていればまだ75歳。
さて高橋悠治のゴルトベルク変奏曲である。いつのまにかこのCDを3年も聴いてきたことになる。ゴルトベルクの変奏される元の曲、最初に提示されるテーマ曲のアリアは音数の少ない、シンプルで淡々としたメロディーが美しい、楽譜にして1ページに収まってしまう長さの作品だ。ト長調という純朴でまっすぐなイメージの調性感、シャープ記号も一つというシンプルさ。バッハが眠れぬ夜を過ごすある伯爵のために書いた曲、と言われているのもわかる気がする。そんなアリアにはじまる変奏曲を、高橋悠治のピアノは、なんと表現すれば伝わるだろう、、、小さな子どもが白い画用紙に思うままに線を引いていくように、線を描くことで心を遊ばせているように、心が遊んでいるから次々新しい線が生まれてくるように、そんな風に弾いていく。
最初に通してこれを聴いたときの衝撃は、グールドのものを聴いたとき以上のものだったかもしれない。こんな音楽のやり方は許されるの? ピアノってこんなに風に弾いてもいい楽器だったの? 真面目? 本気? それとも心ここにあらず? 新鮮な驚きと青く大きな空を見上げるような解放感。2000年代に入った今の、この空気のなかでこんなにも自由に、楽しげに、子どもの奔放さで呼吸している音楽。楽譜の上のきちんと並んだ音符がこの空気を吸って、外に放たれるとき、くったくのないピアノの音になってお返しをしている。なにも決まったことなどないように、あらかじめ用意されたことなど何ひとつないように、つまりバッハだとか、18世紀だとか、西洋音楽だとか、装飾音だとか、ピアニストだとか、ピアニズムなどといったことを忘れさせてくれる、どこに連れて行かれるのだろうとワクワクしながら不安な気持ちを楽しんでいるような、そんな音楽なのだ。
こんな風に弾けるなんて、それはどうしてだ? 尋常ではない箍の外れ方だと思う。それは深い思索と世界を見る視力、といった知の世界からやってきたものなのか。とらわれのなさは、背骨にしっかり知力を携えているから生まれたものなのか。高橋悠治のゴルトベルクには、演奏家というポジションさえ無化してしまうような、過激な一面がのぞいている。ピアニズムのようなものから、もっとも遠いところにある演奏と感じる。すべての出される音は、演奏家にではなく、音楽そのものに還っていく、音のひとつひとつ、響きの美しさ楽しさの中にだけ意味が見い出されるような、そんな種類の音なのだ。それほどまでに、音楽が解放されていること。これは何を表わしているのだろう。
作曲家がいて、楽譜があって、演奏家がいて、西洋音楽が生まれてからずっと当然のように人々が辿り従い期待もしてきた、人と音楽の関係性。高橋悠治は、そのことに対してのまったく違う場所からの問いかけをしているのかもしれない。
カナダ人のグレン・グールドがかつて弾いたゴルトベルクが、旧世界ヨーロッパの音楽を新大陸(新世界)で生まれ変わらせたものだったとするなら、高橋悠治のゴルトベルクは、さらに、この楽曲をもっと開かれた場所へ、あらゆる境界が溶けて言語や文化、顔つきや肌の色が日々の暮らしの中で入り混じり始めた、2000年代の超世界へと引きずり出したのではないか。とらわれのなさ、緩さやたよりなさを手の内にしている独特の演奏は、心の緊張を優しくほぐし対立の思想を溶かす。新旧どちらの西洋世界でもない、第三者の門外漢、辺境の地のアジア人であることに自覚的な音楽家だから持ち得た視点、立ち位置のように思える。放っておけばすぐにまとわりつき身を締めつけてくる歴史や伝統や文化の規範を無化し、ただただ純粋な音の群れとして、自由な精神の証としてのバッハを、境界も囲いもない誰のものでものない共有地に連れ出して歌わせている、それが高橋悠治のゴルトベルク変奏曲だと思う。
2008年2月29日(金)
大黒和恵・editor@happano.org
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