ことばを信じてる監督がことばに頼らないでつくった映画「火垂」

監督・脚本・撮影・音楽:河瀬直美

河瀬直美の恋愛映画、と劇場公開時に女性雑誌、ファッション誌、その他の映画評で紹介されていた作品。見ようと思いながら見のがしたままだったので、レンタルビデオになったのをさっそく借りて見た。

河瀬直美は1969年生まれの女性の監督で、「萌の朱雀」「万華鏡」「杣人物語」などの作品がある。奈良県の出身で、映画の背景にそのホームグラウンドがつかわれることが多い。というか、そのホームグラウンド自身、奈良の風景やことばや人々が、もうひとつの主人公である作品をつくる映画作家。「火垂(ほたる)」も奈良のとある小さな町に住む、ストリップショーのダンサーと陶芸家の男との出会いの物語として描かれている。

わたしは奈良には一度しか行ったことがないけれど、河瀬直美の映画によって、奈良の風景、ことば、人々をよく知っている。「火垂」には奈良の山村の、美しい風景がたくさん織りこまれている。山があり、田畑があり、水辺がある。静かで、おだやかで、ずっと見ていたくなるような風景である(「萌の朱雀」や「杣人物語」を見ている人にとっては、懐かしい風景となった)。そのずっと見ていたくなる風景を河瀬直美はそのように撮る。風景にカメラを据えて撮る。フレームはまったく動かないけれど、風がふいて木の葉が少し動いたり、虫の声が入ったりすることもある(多分)。じっとただ撮る。目がそのように見ているように撮る。

小さな町の路地裏や長屋の風景も映る。「火垂」の二人の主人公とも、その長屋の住人なので。ダンサーの女の家の中も映る。狭く、ごたごたとしている。ドキュメントフィルムのようなカメラワークで、女の部屋の中や女の日常の動作も映しだされる。その部屋はその後、女自身によってめちゃくちゃに荒らされる。椅子をひっくり返し、つくえを投げ、棚の上のものを投げ飛ばし、立っているものを倒し。一度ならず。心の表現法としてそれしかないかのように。だまって、ことばなく、壊しつづける。

「おまえは一人なんかぁ!おれはおらんのか。勝手にせい」と男が怒りをあらわにすることがあるくらい、女は口をつぐんでしまうことがある。そういうときたいてい女は部屋をこわしていたり、火を焚いていたり、手は忙しげに動いている。じっとつったっていたり、座りこんで黙っているのではない。

映画の中で交わされる「ことば(台詞)」の数は、映画としてはかなり少ない方だと思う。主人公二人の台詞が少ないので、ダンサー仲間の女や他の登場人物(村の人々、食堂のおばちゃんなど/役者ではなく本人そのものかもしれない)のひとことふたことも、耳にとても残る。また台詞のほとんどが、この土地の生のことばで話されるので、とても聞き取りにくい。声も小さいし(人が普通にしゃべる音量/台詞として誇張されない/河瀬直美の映画はいつもそうであるが)。主人公の二人の台詞さえ聞き逃すことがある。主人公どうしだって映画の中で、「え、なんて?聞こえへんわ。今なんて言うたん?」と聞きあうくらいである。

では映画は何によって進行していくのか、物語を進めていくのかというと、映像によってである。映像作品だから。映画だから。そういう意味で河瀬直美の作品は、純粋にしてまっとうな、映画というメディアをもっとも効果的につかって作られる作品なのだと思う。台詞が少ないのも、脚本に、ことばが書き割りのように書かれていないから。TVドラマによくあるような、台詞ですべてを説明しようとする作品の対極にある。また登場人物の特定の人間関係にズームズームで寄っていって、ネホリハホリあげつらうようなこともしない。風景も、人々も、天気も、主人公たちも、平等に(制作者からほぼ等距離で)描いていくのが河瀬直美の映画の撮り方。

「火垂」にかぎらず河瀬直美の映画作品はことばが少ない、と書いた。だけど河瀬直美はことばの豊富な人であり、ことばを信じている人であると思う。台詞は少ないけれど、映像にたくさんの豊かなことばがあふれている、というのが一つ。もうひとつは、映画の中のことばの力というのは、ことばの量や言い方の強さや巧さにあるのではなく、声としゃべり方と内容が一体になったとき発揮される、ということを見るものは知らされるから。河瀬直美映画に登場する奈良の村の人々の「しゃべり」が耳に残るのは、こういう理由からだと思われる。

河瀬直美がことばを信じている人であることは、「杣人物語」や「万華鏡」(河瀬直美が手持ちカメラで撮影しながら制作したドキュメンタリー・フィルム/前者1997年、後者1998年制作)や本人がテレビのドキュメンタリー番組に出演したときなどに、「なんで○○したん?どうして?おしえて。どうしてそう思うの?・・・」というようにたくさんの問いかけを相手(登場人物やテレビの制作スタッフ、インタビュアーなど)に仕掛けていくことからもわかる。ことばを信じている。だけれど、(いや)だから、作品の中でつかわれることば(台詞)は、そう多くない。台詞の外に、映像自身の中に、たくさんのことばが込められている。「火垂」は2時間半をこえる長篇作品だけれど、河瀬直美の作家性や奈良(やその周辺の土地)の時間のながれ、というものを考えると、この物語を表わすのにどうしてもこれくらいはかかってしまう長さなのだろうと思えてくる。

このように書くと「よくあるインディペンデント系の、間延びした、退屈な、長篇作品」のように聞こえるかもしれないが、けっしてそうではない。風景や人々に象徴される静けさや穏やかさと同時に、火の粉が飛びちり窯でボーボーと炎が燃えたぎるような激しさと緊張感に満ちた作品である。

ただ一点、わたしが「あれっ」と思ったのは、ラストシーンの音楽。この映画、何ヶ所かにピアノの音(2音以上で構成されているという意味で、音楽といっていいと思うが)がつかわれているくらいで、作中はほとんど音楽なし。それはとてもうまくいっていると思う。それなのにラストシーンでは、なにか情感豊か(そうな)なエンディングミュージックが(突如として)かかる。これはどういうことなのだろうか。とても居心地がわるかった。わたしの見方、聴き方がおかしいのかな。ねえ、河瀬監督、これはどうしてなのですか?


2002年5月3日(金)午前11時30分
大黒和恵・editor@happano.org


火垂:
河瀬直美監督作品(プロデューサー:仙頭武則)
J-WORKS FILM INITIATIVE
2001年春劇場公開(2000年制作/35mm/カラー/ヨーロピアンビスタ/2時間44分)

河瀬直美(一時期、仙頭直美):
奈良県生まれ。1995年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で、「につつまれて」(1992年)が国際映画批評家連盟賞を、「かたつもり」(1994年)が審査員特別賞を受賞。1997年、「萌の朱雀」(劇場映画デビュー作品)が、カンヌ国際映画祭でカメラ・ドール(新人監督賞/1997年当時、最年少受賞)を受賞。その後のドキュメンタリー作品に「杣人(そまうど)物語」(1997年)、「万華鏡」(1998年)、「きゃからばぁ」(2001年)などがある。またCMなどの演出も手掛けており、JUDY AND MARY「PEACE」最後のプロモーションビデオ(2001)の演出も。2000年スイスのニオン映画祭で、レトロスペクティブも開催された。著作に「萌の朱雀」、「火垂」(ともに幻冬舎)。 河瀬直美オフィシャル・ホームページ

「火垂」のオフィシャル・ホームページでは、映画の紹介の他、河瀬直美のインタビューや海外評など読める。HPの情報によると「火垂」は2000年・第53回ロカルノ国際映画祭W受賞(国際批評家連盟賞&ヨーロッパ国際芸術映画連盟賞)、2001年ブエノスアイレス国際映画祭W受賞(優秀主演女優賞&最優秀撮影監督賞)。