<<<
CONTENTS
>>>
POEMS

自前のことばで書くこと、外国語で詩を書くこと
(大黒和恵)


熊さん(著者のイリヤさん)はロシア人のお母さんから日本の話を聞いて育ち、日本のことが好きになり、その後自分で日本語を勉強して日本語で詩を書くようになりました。日本の女の子と恋をして少し暮らしたことがあるという話は聞きましたが、日本に来たことはなく、主に言葉を介して日本との関係をつむいできたようです。

そんな熊さんが、日本を体現する日本人の女の子と出会い、その恋の顛末を日本語でつづろうとしたことは、理解できます。詩を読んでいくと、日本語と恋人たち(あるいは熊さんの心情)との関係は抜き差しならないもののように見えます。ときに、日本語自体が熊さんの恋人なのでは、と思われるほどに。

私は嬉しくなる
あなたの
「久しぶりですね」を聞く時だけ。

ロシア移民としてイスラエルに暮らす熊さんは、ヘブライ語や英語、ロシア語の中で暮らしています。日本語は生活の言葉でもなく、仕事の言葉でもありません。とてもプライベートな領域の、何かを夢見るための言葉なのかもしれません。

箸は一本でいる
ことができないように
私はあなたなしでいる
ことができない。

最初に熊さんの詩を読んだとき、日本のものや言葉をまったく違う角度から見せられたように感じて、衝撃をうけました。日本で生まれ、日本語で育ったわたしには、日本語を外から眺める目を持つことはむずかしいのです。

窓のそばに
長く座っている。
霜の模様を通して何を見るか?

言葉をたくさん知っていれば詩が書けるわけではありません。言葉を少ししか知らなければ、書けることは限られます。思いが大きく膨らんでいるのにそれに足る言葉の持ち合わせがなかったら。。。そこには思いと、言葉の、ギャップ(隙間、裂け目、空白、格差)が生まれます。でも詩においては、ときとしてその空白や格差がエネルギーに変換されることがあるように思います。

冬は来るとき、
霜の花は木の枝に咲く。
花見をしに行きましょうか?

日本語で育ち、日本語の教育を受けてきた者にとっては、たとえ大人になっても、試験などなくとも、何とはしれない管理の元、常に自分の日本語が監視されているような気分でいます。正しい日本語かどうか、こんな用法はあったか、この助詞の使い方では意味を間違えてとられはしまいか、などなど。だから人の書いた文章に対しても、自然、監視の目を向けることになります。(とくに外国人の書いた日本語の場合は。) ところがいざ、自分が日本語を使って自前の文章を書こうとすると、(上手に書こうとすればするほど)慣用句だらけの、手あかにまみれた表現が並ぶつまらないものになってしまったりして。問題は(あるいは幸せは)、管理下で書けるか、ではなくて、いかに管理の外で言葉をつむげるかなのに。

初めてのキスから
墓まで
駆け足で時間が経って行く。

だから、愛の言葉は、
早く言わなくちゃ。

何か言おうとしたとき、二つの言語を持つ人は二つの、三つの言語を持つ人は三つの、その言葉による思考方法や物ごとの捉え方が頭の中で鳴り響いているのでは。熊さんの日本語の詩からは、常に違う言語のひびきを感じました。それが詩にゆるみの空間をつくったり、予測不可能な言葉を呼びこんで笑いや切実さを生みだしたり。

「彼女があなたを捨てたせいで    
あなたの目が赤いのですか?」            
「いいえ、違います。
花粉症のせいだけです」。   

「あなたは花粉症のせいで
一晩中苦しんで夜ねむれない?」   
「彼女が私を捨てたせいで
総ての夜がねむれない」。 

吹き替えで恋愛映画を見ているときに、日本語が聞き慣れない気恥ずかしい言葉で埋めつくされるように、熊さんの日本語もロマンチストでおセンチでぬけぬけとしています。これがパックン(アメリカ出身のお笑いの)くらい日本語社会に馴染んでしまった人となるともう、こうはぬけぬけと言えないでしょう。(母語の英語なら言うかもしれませんが。) そういう意味で熊さんの日本語は、日本語の慣習や、日本語社会の習慣や空気とは関係ないところで育まれた「熊流日本語」という、純化された日本語の一スタイルかもしれません。

いくつかの詩は、習慣的に日本人が使っている日本語とは違うので意味が取りにくかったり、変に感じたりするかもしれません。でもそれも含めて、熊さんの詩の声を聴きとり、その不思議なひびきや言葉の迷子になる感覚を楽しんでいただけると嬉しいです。

そしてさらには、自分のできる外国語で詩なり、文章なりを書いてみるといろいろ発見があると思います。熊さんも、日本語を勉強しながら詩を書いていると言っています。

最後に蛇足かもしれませんが。
試みあるいは遊びとして、熊さんの日本語のからだつきをより強く体感していただくために、この詩集の最後の詩を慣習的な、日本語の語法による詩に置き替えてみました。英語版も参考にしつつ書いたものですが、これを読み比べていただくと、なぜわたしが熊さんの日本語にひとつの修正も加えずに発表することにしたのかが、少し理解していただけるのはと思います。

オリジナル:

私の回りの世界は
砂漠みたいだ。
誰にも愛の歌を歌わない。

黒い夜は
月がない。
何に対しても吠えない。


The world around me
is like a desert.
To whom shall I sing
a love song?

In the dark night,
even the moon is hiding.
To whom shall I howl?


書き替え:

砂漠では
愛の歌をささげる人もなく

闇夜では
月に吠えることもできない