周 文中 * Chou Wen-chung
From the video "In the studio with Composer Chou Wen-chung"
produced by Jennifer Hsu
周文中(チョウ・ウェンチュン) | Chou Wen-Chung
1923年、山東半島の煙台に生まれる。小さな頃から音楽に惹かれ、古琴の演奏に才能を見せていた。その後子ども用のヴァイオリンを与えられ、兄たちとそれで遊ぶ。他に二胡やマンドリン、ハーモニカなど様々な楽器の演奏も楽しんでいたという。自国の近代化の役に立ちたいと、中国の大学で建築を学ぶが、その選択はウェンチュンにとって、アートと科学の間にあるものという意味もあったようだ。
イェール大学から5年間の奨学金を受け、国共内戦中の1946年に渡米、建築を学ぶ。しかし音楽の道に進む決心をし、奨学金を途中で辞退し、ニューイングランド音楽院、コロンビア大学で音楽を学ぶ。つづきを読む >
ウェンチュンのいくつかの曲を聴いて、ピアノ、ヴァイオリンといった西洋の楽器から引き出される、そのユニヴァーサルな響きに驚きました。楽器をその歴史から解放したような感覚があったからです。
チョウ・ウェンチュンは語ります。いま、時代は異なる文化が互いに混ざり合うところに来ている、人間の未来はそこにこそあるのだ、と。(葉っぱの坑夫)
ここで話された話題 [アメリカの学生に教えること/音楽における普遍性/違う文化の中にある美意識/西洋と非西洋の未来/楽器が出せる音の可能性]
このインタビューはブルース・ダフィーのサイトからの翻訳です。
<1995年5月8日、電話によるインタビュー>
音楽は「普遍的な言語」かもしれませんが、その実践について言えば、地球上のそれぞれの場所で大きく変わってくることに気づきます。さらに踏み込めば、音楽の創造には、社会や政治、個々の作曲家や集団の中にある心理や気質が深く埋め込まれています。
作曲家チョウ・ウェンチュンは中国で育ち、若い頃からアメリカで暮らしてきました。そのため彼の発想や作品には、他の誰よりも、二つの側面(国)の影響が見られると思われます。彼の転換点は、古い中国が分裂したときに起きましたが、成長過程において、すでに過去の文明の影響が染み込んでいました。
チョウ・ウェンチュンは生きる中でもたらされた二重性というものが、幅広く経験の中に組み込まれた音楽家です。作曲家であり、教師であり、また文化使節でもある彼のものの見方は、西と東両方の文化に浸されています。
1995年にこのインタビューが行なわれたとき、わたしはすでにクラシック交響楽団(シカゴの若い演奏家によるグループで、いくつかの都市を訪問している)の一員として、中国を訪れたことがあり、さらにそのあと3回行くことにもなりました。「万里の長城を歩けば人生が変わる」と、わたしがよく言うように、近代化に向けて歩む中国を目撃することは素晴らしい体験ではありますが、輝くネオンに消されつつある数多くの歴史的なものに対しては、残念な思いがあります。この原稿を入力している2007年初頭、中国は2008年の北京オリンピックに向けて邁進中ですが、大会ではこの国の進歩と伝統の両方を世界は目にすることになるでしょう。
北京や上海でなにが起きようと、チョウ・ウェンチュンは祖国と移り住んだ国アメリカの両方の音楽界に、特別な刻印を残してきました。こうして彼と電話で話す時間がもてたことは、わたしの特権です。そのときの会話をここに記します。
(ブルース・ダフィー)
ブルース・ダフィー(以下BD):あなたは大学で長く教鞭をとってきました。作曲する時間は充分に取れるんでしょうか?
チョウ・ウェンチュン(以下CW):そうですね、難しい質問です。いつも自分の作品に割く時間を見つけるのは、大変でした。教えることに加えて、たくさんのプロジェクトも抱えてきたのでね。一方で、学生たちとの時間は非常に大切なものでもあるんです。いろいろな意味で、教えることは最高の刺激になります。だからこれについて不満を言おうとは思いませんね。
BD:アメリカの学生たちにとって、あなたが、言うなれば異国的なものを持ち込んでいることが、特に重要だと感じていますか。
CW:そうですね。ご想像のとおり、多くの時間は西洋音楽における近代的な作曲法を教えているわけで、わたしの授業でも、現代音楽におけるテクニックや考え方を基本にしています。しかしながら作曲というものにおいては、わたしの個人的なものの見方や、アジア音楽の知識というものが出てきます。確かに、学生たちにそれが衝撃をもたらすこともあります。しかし概念としては、作曲家志望者たちの教育の中で、音楽における違う次元のものを見せているということだと思います。
BD:教える中で、あなたが自身のものの見方や基本哲学を持ち込まないなんて、想像ができませんけど。
CW:それは間違いないですね。避けられないことだから。もう一つ言えることは、わたしがエドガー・ヴァレーズ*に学んでいたときのことを例にとれば、彼の教え方の中には、アジアの伝統にはまるものがあると、のちに気づきました。つまり簡単に言えば、教えるということは、一種、個対個の体験となります。自分の考えを生徒に伝える。彼らの音楽をどのように見ているか、といったことですね。ある意味、その経験は普遍的なものになる、と言うことです。
*エドガー・ヴァレーズ:フランス出身のアメリカの作曲家。電子音楽の先駆者として知られる。1883~1965年。
BD:両者が見えるあなたの立場からいうと、西と東の文化の基本的な類似点、相違点は何なんでしょうか。
CW:わたしたちは音を扱っています。また人間の情動を扱っています。心理を扱い、表現の手段を扱っています。違いを生むのは、どこが強調されるかです。コミュニケーションが一つの鍵になると思います。何を伝えたいか、音楽制作において、自分の考えをどのように系統立てるかだと思います。
BD:しかし中国の人々の日常と、アメリカの人々の日常では、ものすごく違いがありますよね。それともわたしの思い込みでしょうか?
CW:(笑)まさにそうだと思いますよ、それに異論はないですね。一方で、もっと深く掘り下げれば、ある環境に対しての個人の反応を考えるなら(基本的にわたしたちは自分の置かれた世界への反応について話しているわけで)、その意味で反応というのは原理としては同じだと思うのです。そこで起きる衝動は同じです。それはまさに表現の手段であり、先に話したように、強調、つまり興味の焦点でもある。
実際のところ、この側面についてよく話すんです。教室の窓の外を見て、学生たちにこう尋ねます。「ニューヨークに何を見ますか? コンクリートとスティール? 街で耳にするのはサイレン、空気ドリルの騒音とか様々な雑音があり、一方で過去には、東でも西でも、作曲家たちはかなり違うものを見てきたし、かなり違う音を聞いてきましたね」 しかしわたしたちができることと言えば、実際にあるものを扱うこと、つまり自分のまわりに存在するものです。
だから根本的には、音楽をとおしてコミュニケートしたいという気持ち、音楽をとおして気持ちを表現したいという欲望は、普遍的なものだと思うのです。その取り組みがものごとを変化させます。しかしそこには、美意識の問題が横たわっています。そこには大きな違いがあり、その理由は、違う文化の中にある美意識は、何世紀にもわたって築かれてきたものだからです。よってある社会と別の社会では違いが出てくる。作曲家はそこのところに注意を払うべきじゃないでしょうか。
BD:ではあなたは、人間というのは、充分に深く考察すれば、皆ひとつの種族の一員であり、中身はほぼ同じだということですか?
CW:そのとおり。これは60年代初頭からのわたしの命題ですよ。異なる文化の表現について、人間の一部である美への反応について話してきましたけど、今こそ、違うものの見方、違う美意識を一つにするときじゃないかと思うんです。そして互いに学び合い、何世紀にもわたる経験を分け合うときじゃないでしょうか。
BD:ということは、この地球上に住む作曲家の誰でも、充分に深く考察すれば、同じ種類の庭を歩きまわることになるんでしょうか?
CW:(笑) そうだといいですね。今そうでなかったとしても、将来そうなるのではと思いますよ。わたしたち作曲家は、同じ庭を歩きはじめることからスタートしたのは間違いない、と思いますね。その庭はじょじょに形を変えていきます。美に対する意識は、習慣や因習によって変化しますが、本当に変わってしまったわけではない。
BD:音楽において、美意識は昨日、今日と、作曲家のペンから生まれてきますけど、庭がもたらす影響はどれくらいなのか、ある人間が庭にもたらす影響はどれほどなのか。
CW:どちらも相当なものがあると思いますね。人間性を関与させることなく庭から学んでも、表現はできないからです。その結果、わたしたちが庭に見るものは、ある個人の経験や表現手段を通したものになるはずです。特にその好みや選択という観点でね。ですから根本的なところで、どんな経験を個々の人間がもってきたか、どんな慣習の中で育ったかが問題になるでしょね。
BD:あなたが音楽を書くとき、聴き手は芯の部分で自分と同じ庭をもっている、と想定するんでしょうか。そうであっても、そこからあらゆる経験の違いが生じると。
CW:聴く人の心がどこにあるかを探るのは、とても難しいことですよ。その人たちのバックグラウンドは、みんな違うと思うので。いつも言うことなんですけど、アーティストは基本的に自分を表現したいという欲望、自分のいる環境に対して反応を表すことに触発されるわけですが、ひとたびその表現が外に出れば、それは理解しようとする聴き手にゆだねられます。ある意味、作曲家がどれほど個性的であったとしても、アーティストというのはそういうものですが、自分の生きている時代から逃れることはできないんです。アーティストは浜辺の一粒の砂に過ぎないと、わたしはよく言います。太陽がその一粒にあたったら、光が反射し、それによって誰かに気づかれます。そして美しいと思われるかもしれない。それが人が望むことのできるすべてじゃないでしょうか。
"Eternal Pine"
2015年、Anthology of Recorded Music, Inc.
Richard Pittman (Conductor), Chang Yin-fang (Conductor), Contemporary Music Ensemble Korea, Boston Musica Viva, Taipei Chinese Orchestra
1.Eternal Pine I
2. Ode to Eternal Pine
3. Eternal Pine II
4. Eternal Pine III "Sizhu Eternal Pine"
視聴・購入:Amazon
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B015KXT36S/happanokofu-22
BD:音楽を書いているとき、音楽を発見するのでしょうか、それともあなたがそこで音楽を作っているんでしょうか。
CW:両方をやってますよ。(笑)発見がなければ、作ることはできません。何の発見も見い出せなかったら、何もないところからいったいどうやって音楽を作ればいいんでしょう。
BD:あなたは1949年の革命以前の中国で育ちました。そして革命が成し遂げられる前に、アメリカにやって来ました。その通りでしょうか?
CW:あってます。1946年に、わたしはアメリカに来ました。
BD:ということは、あなたの思想的なものは、王朝時代のものに多くは拠っているということですか? 1950年代初頭に中国の人々に起きた変革の経験なしに。
CW:そうです、はい。
BD:あなたの思想が、この出来事に影響されなかったことをありがたく思ってるんでしょうか。
CW:そうですね。1950年代、60年代を体験することなく、この国で音楽をできる特権を与えられたことに感謝していますよ。政治の問題に強い関心があるわけではないですが、中国文化が失われたことは考えますね。
BD:最近あなたは中国に定期的に帰ってますが、人々は昔の伝統を取り戻したり、再発見しているんでしょうか。
CW:国民は再発見につとめていますね。昔の美意識、美的感覚、過去の偉業を取り戻したと誰かが言っているかどうか、わかりませんけれど。中国文明は17世紀初頭以来、400年間の下落があったという事実に目を向けるべきだと思いますね。
BD:下落? なぜです?
CW:多くは政治的な理由です。1644年に明王朝は終わりを迎えました。最後の二つの政権(皇帝)は、伝統を維持してきただけでなく、初期にはそれを生き返らせ、復興させていました。しかしその後、中国文化や中国の美意識の伝統に上昇機運はありませんでした。それは当時の中国政府の弱体化にによるものです。
BD:西洋における征服の時代とその後の産業革命とつうじるものはありますか?
CW:ローマ帝国を考えてみましょう。ひとたび帝政ローマが樹立されると、わたしの考えでは、それがローマ文明の下落の始まりとなり、2、300年持ちこたえて終わった。言うなればね。わたしたちは今、アートにおけるヨーロッパの伝統の現状を見る必要があります。歴史的観点から、どこに拠って立っているのかですね。
BD:希望はあるんでしょうか?
CW:(笑)あります、ありますよ。わたしは未来に信頼を置いていますが、ただ未来は同じようにはならないと思うんです。西洋と非西洋がともに歩まねばならない時期に、来ているんだと思います。西洋と非西洋の統合のようなことを言っているのではなくて、今わたしたちは世界中の過去の文化、過去の文化的遺産を再発見しようとしている、ということなんです。それを知る必要があり、またそうすることによって、その影響を受けざるを得ないわけです。アーティストにとって、よその文化の源を分析したり、それを取り入れることに価値がある、と気づくのではないですか。わたしについて言えば、文化的な境界はないです。わたしは西洋から学び、ヨーロッパから学び、アジアから学び、中国から学びました。このすべての源泉なしに、今のわたしはありません。
BD:今あなたが立っている場所を好んでますか?
CW:ええ、とても。(笑)今の世の中に生きて、とりわけわたしのようなバックグラウンドを持っていることは、特権だと思います。それによりたくさんの機会が与えられていると感じます。なのでそれを特権と感じるわけです。これについては、自分の中ではっきりとしたものがあります。
BD:あなたはアジアの伝統と西洋の伝統を引き合わせようとしてます。この二つを一つに合わせて、シチューのように煮込んですべてが溶け込むこと望んでいるのか、それともサラダのように一つ一つはより識別できるのがいいのか。
CW:この国では、メルティングポットという言い方をしますね。人によっては「トストサラダ(和えもの)」と言うかもしれない。おそらくその中間ではないでしょうか。わたしが言いたいのは、未来においては、アーティストは自分の入れたい素材を自由に選ぶという贅沢ができ、そこから何かを学び、自分の表現を発展させることができるだろうということです。わたしは中国人として生まれ、中国の文化を受け継いでいるからといって、中国文化のみに固執せねばならないのか、それとも、わたしはアメリカに住んでいるから、西洋の手法のみで音楽を表現をしなければならないのか。そんなことはないわけです。
The Willows are New (1957) Piano by Elisa Vázquez Doval
BD:音楽を書くときに、あなたは誰か演奏家を思い浮かべて書きますか、それともその楽器のために書くんでしょうか?
CW:特定の演奏家を思って書くこともありますが、それよりも、演奏家がどのようにわたしの曲を演奏することが可能か、について考えますね。
BD:すべてを書き終えたとき、それが演奏家自身の解釈に任されることを望みますか?
CW:それは、とても難しいです、もちろん。それは普通の演奏というものがあるかどうか、演奏家が学んできたやり方で、自分の書いたものを容易に解釈できるのかどうか、という問題ですね。これは現在の、西洋の現代音楽の演奏における大きな問題でしょう。それに向き合う必要があり、特にわたしの場合はね。もしわたしの書いたものが、思想的に慣習的に西洋の音楽家たちに馴染みがないと感じられたら、わたしはこの問題をよくよく考えねばなりません。
BD:もしあたなが中国的な作品を書いた場合、演奏者には中国系の人を選ぶということはあるんでしょうか。
CW:ないですね。実際、いろいろな理由で、そのようなことをしたことがありません。その理由の一つは、わたしは過去から、アジアから、ヨーロッパから、その実践を借りてくることがないからです。ですから過去の方法論で訓練を受けてきた演奏家を必要としません。もう一つの理由は、中国の楽器あるいは西洋の楽器を演奏する中国人演奏家の中に、中国の音楽の古い美意識をもっている人があまりいないからです。つまり中国系の演奏家が、わたしが望んでいることをそれ以外の人々より理解している、とは思えないということです。
BD:あなたの音楽は中国で演奏されたことはあるんでしょうか。
CW:たくさんありますが、多くは西洋楽器の訓練を受けた音楽家によるものです。しかし面白い話があって、わたしは中国の伝統的手法をベースにした、9人の演奏家のための楽曲を2、3書いています。中国楽器ヂァン(箏、中国のツィター)のための古い曲に由来するものです。中国古典音楽の全国会議で、この曲を聴いた中国の人々から、自分たちが親しんできた音楽の精神を実によく捉えている、と言われました。しかしそれは耳で聞いたものに対してです。その曲は9つの西洋楽器のための曲です。つまり言いたいのは、ある精神や哲学を目指して書いているということです。どう演奏されるということよりもね。
演奏に関しては、もちろん基本的にわたしは西洋の楽器をつかいますし、よって西洋の技法になります。とはいえ概念的には、たくさんの問題があります。実際のところリハーサルでは問題にぶつかります。気にはしていません。あらゆることは時とともに進化しますから。今でもリハーサルのときは苛立ったり失望したりしますが、ここ何年かの間に、若い音楽家たちがとてもよく演奏するようになっていると感じますし、わたしが音楽に求めているものを、昔みたいな難しさを感じることなく理解するようになっています。
BD:良くなっているというのは技術的になのか、音楽的になのか。
CW:概念としてだと思います。今日までに、演奏家たちは非西洋の音楽の美学やそこに必要とされるものに目を向けるようになっていて、それに対する理解があるのです。
BD:音楽の世界で、あなたがやっているように文化を混合させようとするのではなく、純粋なものを維持しようとしている人たちに居場所はあるんでしょうか。
CW:ありますよ。実験をしたり、自分のやり方で進化や発展させる前に、自分たちの文化を守るべきだという考えを、わたしは常にもっています。つまり伝統を維持することは大事なことだと思うのです。あらゆることの始まりです。しかしながら、それを保持して、そこから動くことなくじっとしていると言っているのではありません。過去の音楽は、過去の音楽なのです。わたしたちが今なお聴きたいと願う、学びたいと思う素晴らしい楽曲は確かにあるはずで、しかし今を生きる作曲家にとって、過去につくられた音楽をただ繰り返すという理由はないのです。
BD:わたしが作曲家の方々にいつも聞く質問があります。あなたの音楽は、あなたの書く音楽は、あらゆる人ためのものでしょうか。あなたにとってとても重要なことだと思いますが。
CW:(笑)そうですね、「あらゆる人」というのが誰かによりますけれど。前にも言いましたけど、もし自分に忠実であるなら、自分が誰なのか、何者なのか理解し、自分の考えに誠実であり正直であるなら、そして自分を表す最高の表現方法を探して仕事を成しとげたなら、最終的にあらゆる人々に理解されるだろうと、今このときとは限らずにね、そんな風に思ってます。
BD:何年かの間にあなたが書いてきた音楽には、バランスはあるのか、つまり芸術的な達成と娯楽としての価値のどのあたりにバランスがあるのでしょう。
CW:これについても、今の時代には、「芸術」と「娯楽」という言葉の定義にたくさんの混乱がありますね。わたしにとっては、芸術のみのもの、純粋芸術というものはないんです。芸術は楽しみをもたらすものであり、それは娯楽になります。しかしある作品が純粋に娯楽を目的として書かれるとしたら、それが何を意味するのか考える必要があります。ある人にとって娯楽であるものが、他の人にとってもそうであることはないでしょう。聴く人を必要としない、という態度をわたしは取りませんし、聴き手を楽しませなければいけない、という態度も取りません。もしこのどちらかを取るなら、その人は自分に対して忠実ではないかもしれません。人がなぜ作曲をしたいと思うのかの、もっとも重要な理由がここにあります。
From the video "In the studio with Composer Chou Wen-chung"
produced by Jennifer Hsu
BD:あなたには、たくさんの依頼作品があると思うのですが。
CW:ええ、あります。
BD:依頼がきた場合、それを受けて作曲に時間を費やすか、断るか、どうやって決めるんですか?
CW:自分がその作品を心から書きたいかどうかによって決めますけど、ときに考えもしなかったような作品の依頼がくることもありますね。でもそれをチャレンジであると受けとれば、自分のやりたいことになります。そうなれば、その依頼を受けます。ただ、基本的に、次にどのような作品に取り組みたいか、自分の中にあることが多いです。
BD:ではそれに合うような依頼を待つと。
CW:そのとおり。(笑)それをやることで、自分のやる気が促進されるような依頼を待ってますね、実際のところ。
BD:通常の西洋楽器と同じように、中国の伝統楽器も楽曲に使うんでしょうか。
CW:いいえ、中国の楽器を使ったことはないですね。中国の楽器から、さらにはアジアの楽器から、非西洋の様々な楽器から学びました。これらの楽器から、わたしは自分の音楽を構築する方法を見つけてきましたけど、中国の楽器を使う必要性はまったく感じていません。何十年か前には、中国の楽器を使うことを考えましたが、明らかに、わたしの音楽の可能性を狭めてしまうでしょうね。
BD:ではさっきあなたの言っていたヂァンで曲を書いてほしいと誰か来たら、断るんでしょうか。
CW:いいえ。(笑)ヂァンのために書くことは構いません。実際、依頼があろうとなかろうと、いずれ書くことにはなると思います。チャレンジにはなるでしょうね。膨大な歴史と伝統をもつ楽器なのでね。何世紀もの間、この楽器のために、素晴らしい、真に輝かしい作品が書かれてきました。このような楽器のために書くことは、どんな現代作曲家にとってもチャレンジになるでしょう。計りしれない可能性をもつ楽器ですから。ほとんどピアノに相当するくらいの広い音域をもち、色彩の可能性は無限です。ただ、そのような楽曲を書いたとして、それを演奏できる人は非常に少ないでしょうね。
BD:ヂァンの音を再現できる方法は、たとえばシンセサイザーを使った楽器で演奏するとか、この国であるんでしょうか?
CW:それはあり得ますね。まだ試されたことがなかったとしても驚きませんけど、わたしにはあまり興味がありません。わたしが関心をもつのは、この楽器が出せる音の可能性を探り、その意味を知ることです。たとえば、ある楽器は多くの含みをもっていますが、それが音楽をとおして訴えようとしているものは何か、そこにどんな可能性があるか。現代作曲家にとって、特別に興味深いものです。
記譜法について言えば、非常に進んだものです。それはタブラチュア譜*で、一つ一つの記号が示すのは、現在の作曲家が口にするような、あらゆるものです。アーティキュレーション(表現上のメリハリ)の種類、音質や音色、色彩の変化、様々なビブラートといったことです。つまりあらゆる可能性を提示します。
しかしわたしは、その楽器に何ができるかに、それほど関心がないのです。それよりも、楽器からわたしが学ぶことで、できることを探りたい。その楽器の背後にある意図を学び、過去にこの楽器で作曲家した人々が、何故そのように使ったかということですね。わたしの音楽理論のほとんどが、つまり理論や技術が、この楽器の研究、そしてもちろんこの楽器を使った音楽から生まれたと言うことができると思います。
*ダブラチュア譜:楽器固有の奏法を文字や数字で表示する記譜法の一つ。音高と音長が示されている現代的なタブラチュアの元祖に当たるものは、14世紀以降に使われ始めたとされる。
"Chou Wen-chung: Clouds"
2011年、Mode Records
Brentano String Quartet
String Quartet No.1 "Clouds" I. II. III. IV. V.
Twilight Colors: I. II. III. IV. V.
String Quartet No.2 "Streams": I. II. III. IV.
視聴・購入:Amazon
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B07DYNWP7S/happanokofu-22
String Quartet No.1 "Clouds" II. Leggierezza
よりサンプル(0.46)
BD:あなたの曲が演奏されたものを聞いて、基本的に、満足していますか?
CW:良い演奏は常にあります、でも前にも言ったように、難しくもありました。失望することは多いです。いつも言うことなんですけど、コンサートが終わったところで、わたしが演奏家たちに話をすると、彼らはこう返すんです。「さて、では今からリハーサルだな」(笑)でもこうも言えますね、特に最近は(もちろん過去にもありましたが)、非常に素晴らしい演奏がある、とね。
BD:作曲家としてのあなた、そして演奏家たちは皆、完璧な演奏のために努力するわけですよね。
CW:そのとおりです。
BD:そんなことは可能なんですか? 完璧な演奏をするなんて。
CW:いいえ、「あー、これは完璧だ」という言い方をしたとしても、その通りではありません。また自分の耳を通して、自分の音楽の完璧な演奏を聞くことはないです。自分が何を求めているかわかっていますし、書かれたものがどういう音になるはずか、なるべきかもわかってます。しかし常に、演奏には巾がありますし、演奏家によって引き出された表現に驚かされたとしても、それは仕方ありません。それでもわたしの想定の中に、わたしの目標の範囲内に、演奏はあってほしいとは思います。
BD:あなたの音楽はたくさんレコードになっていて、それは地球規模で聞かれています。それは喜ばしいことですか?
CW:ええ、そのとおりです。一番最近のアルバニー・レコードの演奏は素晴らしいです。CRIの古い録音があって、CDになる予定ですが、かなり昔の録音ですよ。ハーベイ・ソルバーガーやチャールズ・ウォリネン*などの演奏は卓越していたと思います。
*ハーベイ・ソルバーガー、チャールズ・ウォリネン:どちらも1938年生まれのアメリカの作曲家、ウォリネンはフルート奏者でもある。
BD:彼らが作曲家でもあることが、影響をもたらしたでしょうか?
CW:そうですね。さらには、リハーサルを何時間もかけてやりました。それは大事なポイントで、音楽を理解したい、正しく演奏したいという意欲や欲望の表れで、これが鍵になります。今度出るCDはまさにそれを実現しています。
BD:あなたが書いたのだけれど気づいていない、楽曲の中の何かを、演奏家が発見することはありますか?
CW:あまりないですが、スコアの中にある問題の発見はあり得ますね、わたしがそこまで注意を払っていなかった部分などで。多くの発見は、わたしが作曲している間に見つけられると思います。こういうケースはありますね。演奏家が弾く準備をする中で、わたしに質問を投げかけてくることがあって、それに対して正しい答えを探すことが、わたしの刺激になるといったね。
BD:曲を演奏する際、正しいやり方は一つだけなんでしょうか?
CW:わたしの言っているのは、演奏者に作曲家が望むことを示唆することです。それは今ある表記法は、どんなにがんばっても、音楽の中にあるものを解読するには曖昧なところが残るからです。ですから作曲家は、演奏家が楽曲からそれを引き出せるよう、正しいアプローチを示す必要があります。
BD:曲を書いていて、すべての音をページに書き込み、終わりまで来て、戻って直してとやりますよね。どうやって、どの時点で、曲が完成したとわかるんでしょうか。
CW:(笑)難しい質問だな。自分が満足するところまで行っていなかったら、まだ充分ではないと言えるし、それで満足となれば曲の方が終わりに気づいて、作業がとめられるんじゃないですか。なかなか難しい問題ですよ、確かに。また、当然ながら、ある部分を修正すべきではないかと、楽曲が作曲家に提示してくることもあります。
BD:あなたは従いますか?
CW:ええ、やりますよ。でも広範囲ではありません。普通は小さな調整であり、強弱の指示であったり、 拍やリズムに関してですね。非常に多いのは、どのように明確に演奏家に伝えたらいいか、その必要性を感じたときです。
BD:では修正というより、明確にするということですか。
CW:そうです、音楽自体を変えるのではないです。
From the video "In the studio with Composer Chou Wen-chung" produced by Jennifer Hsu
チョウ・ウェンチュンの住んでいる旧ヴァレーズ邸の一室。デスクの前の肖像画はヴァレーズと思われる。
BD:最後の質問です。作曲は楽しいですか?
CW:素晴らしいものです。特別な体験ですよ。楽しくもあり苦しくもあります。大変な苦痛に陥りますが、それを手にしたら、終えることができたときは、他に比べるものがないですね。それを逃したくはないです。
BD:いいですね、それは。あなたのさらなる成功を、中でも「アメリカ・中国芸術交流センター(the Center for U.S.-China Arts Exchange)」の進展を願っています。どちらの側にとっても、理解の助けになってきたのでしょうか?
CW:ええ、おおいにね。互いの理解のために、そして何か成すために互いを助けるという意味で、何が必要とされているか、何を成すべきかについて主に考えています。そのために、わたしたちは非常に重要なプロジェクトを実施してきました。たとえば中国の最南端で、5年計画のプロジェクトを今やっています。
そこは東南アジアの国々の真ん中に位置しているわけです。少数民族の村々の文化に関わっているのですが、東南アジアでは、同じルーツをもつ人々が国を違えて一つの文化を分け合っています。わたしたちがやっているのは、彼らの文化をよりよく保存し、さらに進化させることです。非常にワクワクする仕事です。しかし、こういう仕事を始めてもう18年間になりますが、これに関わった人たち皆がそうであるように、わたし自身がそこから大いに学んできました。このような仕事をする体験は、作曲家にとって、とてつもない刺激になるのです。
わたしたちのプロジェクトは、中国とアメリカの間にかぎったことではないということですね。音楽にかぎらず、中国とアメリカの間のあらゆる文化もです。そのために、わたしはアジアの国々を広く旅してきましたし、人々と話をし、文化の違いについて知りました。非常に刺激的なことでした。本当のところ、わたしはすべての作曲家に、あらゆるアーティストに同じことを勧めたいですね。人の心を開く、1番の方法だからです。こういうことをする中で多くを学びましたし、また他の人々に何か差し出すことによって、より多くのものを得たと言えるんです。
BD:そうですね、そうですね。あなたが自分の心を開き、作品を大きく羽ばたかせ、それをわたしたちに分けてくれて、とても嬉しいです。
CW:ええ、わたしは自分がそうできる位置にいることを幸せに感じています。先に言ったように、今この時代に生きていることをありがたく思いますし、よその違う文化を理解することに、心を砕いているのです。「理解する」という言葉では、足りないかもしれません。わたしが、他の文化から学ぶということの意味は、自分の心を研ぎ澄ますことであり、自分の地平を広げることであり、そこにこそ人間の未来はあるということなんです。
周文中(チョウ・ウェンチュン) | Chou Wen-chung (つづき)
大学とは別に、1949年にエドガー・ヴァレーズ(1883~1965年、フランス出身のアメリカ人作曲家)と出会い、教えを受け、その後の16年間、師として友人として親しい関係を保つ。生前の師自らの依頼により、ヴァレーズの死後、遺作の管理を務めていた。
数多くの内外の受賞歴があり、主要な作品として『The Willows are New』『Cursive』『Clouds』『Eternal Pine』などがある。母校コロンビア大学で1964年より1991年まで教鞭をとり、音楽学科の学部長も務めていた。子ども2人、孫3人がいて、現在もグリニッジ・ヴィレッジ(NY)にある元ヴァレーズ邸(死後に引き継いだ)に暮らしている。
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