DISPOSABLE PEOPLE
ディスポ人間
第20章
昔、遠いとおいところに一匹のゴキブリがいた。
このゴキブリは次の世紀が見てみたい、とは思わなかった。一つ見れば充分だった。ゴキブリの人生のすべては、ゆえに、前世紀(20世紀)のみに展開された。生まれたのは第一次大戦のあと、第二次大戦の前だった。彼自身は小さな存在であったが、彼の誕生はある意味、歴史的な出来事に囲まれていたと言うことができる。
ゴキブリの習性として、この一匹も生涯を暗くて狭苦しい場所で過ごした。ここを家と呼んだら、家をもつ多くの人は気分を害するかもしれない。その理由から、この小さな暗い場所を家とは呼ばないことにする。
ゴキブリの目の届く限り、見えるのは見知らぬ存在ばかりだった。複眼の目を大きく見開いて北を見れば、見知らぬ者が見えた。あごを動かしくちゃくちゃやりながら、東から登る太陽に目を細めれば、見知らぬ者が見えた。触覚がどっちの方向に向いていようが、見知らぬ者が見えた。見知らぬ者たちはみんな家族づれだったが、自分の家族ではなかった。知られている限り、彼には家族はなかった。ニワトリとひなの大家族に囲まれていたが、自分はゴキブリだった。ニワトリとひなに囲まれて、暗く狭いところに住む、ひとりぼっちのゴキブリだった。
このゴキブリの暮らしは心もとないものだった。それは厳しい時代に生きていたから、簡単に言えば、ニワトリは皆、自力で生きていた時代だった。親鳥はあからさまにひなの世話に関心がなく、ひながどうやって食べてるかにも知らんぷりだった。これには二つの理由があった。一つは、ここまでに話したように、この時代は一般的に、ニワトリはひなも含めて自力で生きていたこと。二つ目はこの時代、ひなは恐ろしげな存在になっていて、どうやって餌を得てるのか、親鳥さえひなに訊くことがためらわれたこと。くちばしに血をつけて寝ぐらに帰ってきた最初のひなの話は、いまも語り継がれている。ミミズや昆虫、トウモロコシを餌にしているわけではないと知りながらも、どこでどうやってという単純な質問ができないでいた。このひなは何を食べているのか。先のゴキブリは誰よりもこのひなを恐れていた。誰もがこのひなを何よりも恐れていた。
このゴキブリは昼の間、暗いところにいて、ニワトリが寝ぐらに帰る夜になると出ていくので、素性はあまり知られていなかった。大半のニワトリは、このゴキブリは教育レベルが低いと推測していた。それは理性的に見れば、ゴキブリは学ぶ能力がなく、また実際的な視点からも、ニワトリの中に住もうとするゴキブリは、正気とも学があるとも思えなかった。ぼく自身の見方では、それに興味をもつ人がいるとして、このゴキブリは賢くて、いつの日か本を書こうとするのではないかと思っていた。ページを繰るごとに政治家や聖職者と笑みを交わし、この先のより良い生活を約束するような種類の本、そして彼らが背を向けた途端、やじを飛ばすような類の本だ。しかしそのような本が書かれることはなく、彼のインテリぶりを見ることはなかった。
このゴキブリは長いこと生きた。ニワトリもひなも彼を食べようと近づいたりしなかった。たいてい離れたところに立って、餌をついばみ、足を踏みならしながら、からかいの言葉を投げた。ニワトリたちが言うことには、ゴキブリの臭いのせいらしい。ゴキブリは風呂に入るのを拒むからだ。ぼくの見方を言うなら、ニワトリやひなたちは、自分たちの中に住むゴキブリを怖がっており、それは彼らの理解を超えることなので、そのようなことは恐れられるのだ。それに当時は恐れと迷信の時代で、啓蒙の時代以前を彼らは生きていたからだ。
ニワトリたちは彼を年寄りトムと呼んでいた。彼が年老いたゴキブリだったからではない。実際のところ、まだ若かった頃にこの名前はつけられた。これは普通のことで、ジャマイカの田舎の名前や愛称の付け方とまったく同じだ。彼は羽がなく、そのため飛べなかった。彼はまた、ひなを追い越すほど足が速くはなく、それで人生のほとんどを暗い場所で隠れて暮らし、からかうニワトリやひなにつばを吐いた。その臭さ、吐いたつばとその臭いに守られて安全だった、とニワトリたちは言う。
ゴキブリが死ぬと、ニワトリたちはゴキブリ墓地に埋めたいと思った。しかし棺の中のゴキブリを持ち上げようとしたら、100羽のニワトリでも動かすことができなかった。ぼくはその日そこにいたから、証言することができる。彼の悪臭のせいだと言う人がいたが、それで棺が重かったのではない。ちがう。ぼくのばあちゃんが説明してくれたように、ゴキブリの意志によって重くなったのだ。
二つの理由で、ぼくは年寄りトムのことをここに書く。生きものの意志を理解することは、人間にとって重要だということが一つ。それが人間であろうとゴキブリであろうと、また生きていようと死んでいようとだ。二つ目は、このゴキブリについて語るより大切な理由だと思うが、ぼくは子ども時代の何年もの間、自分の人生がゴキブリサイズで展開されないよう願い、祈ることで過ごした。ぼくは懸命に祈った、毎日のように、そんなことにならないように。次のようによく祈っていた。
慈悲深い父よ、あなたのすべての恵みと優しさに感謝します。わたしの目の前に、食べものと水を置いてくださることに感謝します。わたしのからだと心の強さに感謝します。そして慈悲深い父よ、あなたがわたしの人生をゴキブリのようなものにしないことを祈ります。ゴキブリは踏みつけられます、神様。そして、彼らは押しつぶされます。押しつぶされるのです、神様、押しつぶされるのです。このゴキブリたちのために、そして他のゴキブリたちのために、ぼくは祈ります。アーメン。
ぼくはこんな風に、ゴキブリみたいにペチャンコにされるしかない人生はいやだった。貧乏暮らしをしていた子ども時代、心を遠くに飛ばせて、自分の人生に大きな期待の翼をひろげた。そしていつの日か、ひとかどの人間になることを望んでいた。マンゴーの木の下にすわって、自分がどんな人生を送りたいか、他の人がぼくやぼくの未来の妻をどんな風に見るだろうと、あれこれ考えた日々があった。旧約聖書のイザヤ書の中にちょうどいい見本を見つけた。第40章9節:
「ユダの街々に言いなさい、見よ、あなたがたの神を!」
見よ、あなたがたの神を! ぼくが子ども時代に読んだ、もっとも美しい表現だと思う。というわけで、その結果、ぼくはこれを元に、いつの日か自分と自分の妻に合うような表現を導き出した。疑いようなく、もちろん、ぼくは妻を得るだろうから。以下は子どもの頃にぼくがノートに書き留めたいくつかの表現。
見よ、この男を!
見よ、この男の力を!
見よ、この女の美しさを!
見よ、この二人の立派さを!
見よ、自分の運命の主であるこの男を!
しかしながら、どんな状況であれ、以下のような言葉は絶対に受けつけなかった。
見よ、このゴキブリを!
ぼくは押しつぶされるなどということには耐えられない。ゾッとさせられる。ただ押しつぶされるだけという、何の価値もない人生を送った人を知らないし、その最初の人間になどなりたくもない。もちろん、ぼくは一匹のゴキブリ、年寄りトムを知ってる。暗くてどうしようもなくひどい場所で、臭くてきたない役立たずの人生を送り、みんなからからかわれ、さげすまれていたゴキブリだ。でも彼が死んだところを見てないし、誰もあいつが押しつぶされたとは言ってなかった。ぼくはネズミの屁より価値の低い人間がいるのを知っていたし、その人たちの人生が押しつぶされんばかりだったことを知っていた。でもこの人たちでさえ、最終的には、そのような不名誉な運命からなんとか逃げ出している。思い出すのは、ぼくが小学校に行っていた頃(そのことではママには感謝してる)、ある日スクールバスの後ろで遊ぶ子がいた。バスがよくするように、そのバスもバックした。そして車輪がその子をひいてしまった。その子の全身を。右側の車輪全部で。頭からひいていった。これはトミーじゃない、別の子だ。
(ベルばあちゃんの言ったこと。「あの子が教会に行ってたら、こんなことは絶対に起きなかっただろうよ」)
でもその子は押しつぶされたんじゃない。骨と風船がいっぺんに砕けて破裂したみたいなバリバリ、パーンというような音がした。
また1980年の総選挙のことを思い出した。「生身の」人間が何百人も死んだとき、「押しつぶされた」ように殺されたと見られる一人の男がいた。選挙のときに殺された多くの人は、普通の道具で殺された。ナイフやアイスピックで突き刺され、鉈の刃で切り刻まれ(家庭内紛争ではなかったから)、銃で撃たれるなどした。その日、ぼくは近所の男たちといっしょに、違う(普通でない、何とは知れない)方法で殺された男を見に行った。その男は対抗する政治集団の本拠がある道を歩いていた。当時、ジャマイカ人にとって政治はマジなことだったことを考えれば、あまり賢いこととは言えない。その頃は、誰かを切りつければ、オレンジか緑いずれかの血が流れた。そればかりか、敷地内にいるニワトリや犬、豚、ハエ、家のまわりに咲く花々までもが、共産党同志(人民国家党員)か労働党員のいずれかだった。また赤んぼうが最初に口にする言葉は、「くちゃいまんこあな労働党員はどこ?」とか「銃ちょーだい、くそ同志ヤロウをうちころす」というようなものだった。
話をもどすと、パレードの取り巻きの車で道を進んでいた男は、対抗する政治団体のチンピラ支援者たちによる路上封鎖に止められた。男の仲間はみんな車から飛び降りて逃げ出した。男は足を怪我していたため、車に残され、チンピラ支援者たちに捕らえられた。仲間が男を助けに増援部隊とともに戻ったとき、燃えるタイヤと封鎖に使われた古い冷蔵庫に囲まれて、道路に横たわる男を発見した。銃で撃たれた跡も、突かれたり切られたりした跡もなかった。生きている印も、もちろんなかった。しかし男の頭やからだに、何度も何度も、クソ何度も、落とされた大きな石やレンガが、忠犬が死んだ主人に寄り添うように、すぐそばに転がっていた。
(ベルばあちゃんの言ったこと。「あの男が教会に行ってたら、こんなことは絶対に起きなかっただろうよ」 誰だったか忘れたけど、激しい政治闘争の最中にいた男が、「あのくそババアを黙らせろ!」と言ったのを覚えている)
そこに立っているとき、起きていることのすべてに不合理さを感じていたことをここで告白しよう。「冬季オリンピックでジャマイカのボブスレーチームの競技を見る不合理さ」的なことを指しているのではない。「あの男のいとこでさえ対抗する党にいれば、彼にレンガを落とした」的なことを言っている。
何人かの人が大きな石とレンガが落ちたときの音を聞いたと言った。ぼくはこの人たちの説明を聞いたが、誰一人「グシャッ」という言葉は使わなかった。バリバリ、プシューッ、ポン、サクサクと言うものはいたが、「グシャッ」はいなかった。
そして、ビアー・ペン小学校のところにも人生の曲がり角はあった。
学校に行くために道を渡ることは、その角に近寄ることだった。アブナイ角だった。ドラッグのディーラーたちは世界のどこでも、商売のために角地をつかってきた。その人たちはいつも子どもたちに(大人と同様に)死を提供しようと、角地に陣取っていた。この角は、ドラッグのディーラーから教えを受けて、一人でビジネスを展開していた。6歳から11歳の子どもの死のニッチ・マーケティングの拠点だった。
「おい、そこの子、ちょっとおいで。そこを渡ってこっちに来いよ、いいものやるからさ」のように角は言っていた。
「なんでー?」と子どもたちは返す。「ミスター・角、何をくれるの?」(子どもというのはいつも礼儀正しくて、どんなときもミスターやミスをちゃんとつける)
「わたしはちょっとした死をもってるんだよ、きみら子どものためにね。だからちょっとおいで」
「死ってなんですか、ミスター・角」
「きみたち、死が何か知らないのかい? どこで暮らしてんだい? いったい何歳なの? 死に出会ったことがないのかい?」 こんな風にして子どもたちは、死のことを知らないことで、自分たちがバカで無学と感じる。「死はな、甘いものだ。俺がやる小さな死はな、すごく甘いぞ」
「でも校門のところにいる女の人の売るものも、すごく甘いよ、ミスター・角」 そのように子どもたちは返した。ジャマイカの田舎の学校に行く者はみんな、校門のところでキャンディーやビスケットやアイスクリームを売る女の人のことを知っている。その人たちのいくらかは、たいてい足のどこかに痛みをかかえてる。
「そうだ、それも死なんだよ、子どもたち。いや、でもな、その人たちがくれる死はさほど甘くはない。その人たちの死は何年か待たねばならない。それか病院に行って手に入れなければならないんだ。俺のあげる小さな死はな、すぐに手に入る種類の甘い死なんだ。試してみるまでは、くさしたりするな。ほら、おいで。そこを渡って来るんだよ」
子どもたちは、自分の年齢で死のことをよく知らないことを恥じて、道を渡ってくる。強い言葉でこの角を正そうとする者が出てくるまでに、15年近く子どもたちは道を渡っていった。そして15人以上の子どもが死んでいった。
(ベルばあちゃんの言ったこと。「あの子たちが教会に行ってたら、こんなことは絶対に起きなかっただろうよ」)
でも子どもたちはミミズみたいにプチューッとやられた。グシャッとではない。
ぼくはこのことをよく覚えている。それは兄さんが、スピードを出した車が角を曲がってきたとき、ぼくの手を握ってこう言ったからだ。「ケニー、ちょっと待て」 カリブらしいよく晴れた日だった。もし兄さんが(兄さんが心を手離す前のこと)ぼくの手を離していたなら、ミミズのことを書こうとは思わなかっただろう。ぼくはミミズに食われていただろう。
この話のポイントは、セミコロン、将来自分が何になるのか、あるいはいやになるほど長い人生を生きるのかどうかわからなかったとき、ゴキブリの人生より大きなスケールで生きたい、という意志と欲望にいつも突き動かされていたことをきみに伝えたかったんだ。それから自分の人生がグシャッとつぶされてしまわないこともね。