DISPOSABLE PEOPLE
ディスポ人間
第38章
マイラブ、ぼくは昔美しい詩を書こうとしたことがある。シェリー(女の子っぽい名前だけど男だ)、テニスン、バイロン、シェークスピアのようなものが書きたかった。下の詩はぼくの最高のもの。
『目覚め』
ぼくらはヘブライ語の賛美歌をうたうため生まれた
モッキングバードの鳴き声が、ぼくらの皮膚の上で
まごつく虫をつつくと、虫たちは目をひらき
自分たちのからだをこちらの魂と比べ
悪魔の夢をぼくらに見せた
ぼくらの魂は橋をわたすように、荒波の上を
何世紀ものあいだ伸びていった
荒波はふくれあがり、放射性シードを岸に運んだ
それはライオンを発芽させ、ライオンたちは
ハンバーガー、鶏のささみ焼き、ミニキャロット
ジーティ(パスタ)、スパイス入りリンゴ煮、
サーグ・パニール(青菜とチーズの料理)
酢鶏のために
歌い、踊った
そしてメイプルツリーとなって休憩した
ジャッカルは血のシロップをすすり
笑いながら甘くすすり泣いた
シロップはその声に蜜をまぶした
ジャッカルたちは高いところに登っていき
そこで歌をうたった
ライオンたちはそれを耳に、からだを休め
丘と金の夢を見ていた
日付のない日記
だけど、あー、詩的にしようとするほど難しい! 誰も詩など理解しないし! だから詩の美しさは、俗世の中では行き場がない。
もっと重要なことは、マイラブ、ぼくは韻を踏んだ詩を書かないことに決めた。自分が詩人になりたいのではないとわかったからだ。詩人というのは貧乏だ。
ぼくはポエットじゃない、
ぼくはきみがノエットであればと思う
ポエットはたいて貧乏だから
ぼくは作家になりたかった、成功した作家に。それでぼくは金がたくさん稼げる、と思う。そうなったらぼくは、喜びでグルングルンまわるよ。
これがぼくが作家になりたい理由だ。
この問題についていうと、ずっと本の内側にある批評の言葉に心奪われてきた。いつか誰かの本の批評を書く日がくるのか、心もとない。それで自分の本について、やってみようと思った。その本のタイトルは、『ぼくが必要としているのは賢い犬だ、と思うことがある』。以下はぼくが書いたレビュー。
『ぼくが必要としているのは賢い犬だ、と思うことがある』は、エドウィージ・ダンティカの『吐息、目、記憶』とオーガステン・バロウズの『ハサミを持って突っ走る』の哀感と断腸の思い一発を持ち合わせ、フランク・マコートの『アンジェラの灰』のウィットと捻れたユーモアにあふれ、カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』の言葉とスタイルの簡潔さをもち、リチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』の勇気ある紋切り型の真逆をいき、カーレド・ホッセイニの『カイト・ランナー』の<気味の悪いわけのわからないものからぼくを逃してくれ>を実現し、そして「シェークスピア作品に見られる簡潔さ」のあからさまな否定が見い出せる。それでもなお、これは完璧にユニークにして輝かしい、独り立ちしようとする小説である。で、このペーパーバックが、たった14.95ドルというのはたいしたバーゲンである。
ニューヨークタイムスにこれが書けたならなあ! そんなことができたら最高だ。なかでもシェークスピアとの比較は秀逸。ハハハ、でもぼく自身によるぼくの作品の批評を読んだあとには、こんな風に厳しく返されることはわかってる。
必要とされる慎み深さがほとんどない。
ニューヨークタイムスの批評
あるいは自ら批評を書くかもしれない。断定的であざけりに満ちたものを。こんな風じゃないか。
恐ろしいまでの読みやすさ、そして恐ろしいまでの酷さは忘れがたい。
ニューヨークタイムスの批評
こんなもんだよ、それ以上のもんじゃない。
で、これを予測した上で、ぼくはこれをもう少し抑えたものに書きかえた。
『ぼくが必要としているのは賢い犬だ、と思うことがある』は、治癒していないかさぶたを剥がすような感触を読み手に残し、痛みでたじろがせつつ、笑いとジョークをもたらす。
出版社に原稿を送るときの添え状になるんじゃないか。
またアメリカのペーパーバックで14.92ドルというのはいい値段だと思うので、大きな成功があれば、ぼくはたいした金持ちになるだろう。考えただけで目がくらむような喜びだ。ついにぼくの良心より、財布の中身のほうが重くなるか、少なくとも釣り合いがとれるようになる。これについて、一遍の詩を書く。
『喜ばしい釣り合い』
あー、喜ばしい釣り合いよ!
その日がついにやって来る。
財布の中身が、ぼくの良心と同じくらいの重さにまでなり、
コインじゃなく紙幣で満たされる日が。