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DISPOSABLE PEOPLE

​ディスポ人間

第40章

セミコロン様

 

目が覚めると、濡れていることがよくある。ぼくの夢は赤い色の中を流れる川で、それが皮膚の中を通りぬけ、消すことのできない悲しみとともに、骨にシミをつけていく。目が覚めると、ずぶ濡れになっていることがよくある。噴出する汗が音もなく流れ、その汗が黒い爪の中から、虫とその悪臭を洗い流していくのをぼくは見ている。

 

この夢は何を意味してるんだ、セミコロン?

 

愛を、ケニー

 

2011年6月の日記から

 

 ここにぼくらが知る一つのことがある。美しさは脳を叩いて、醜さを打ち負かす、何度も何度も。このように、ものごとはその本質では、いつも同じところにとどまる。

 自転車の乗り方を習ったことがないとぼくに告げたとき、ミスター・ローパーはすでに50歳だった。そのときにはミスター・ローパーの髪はグレーになっていて、歩くとき足を引きずっていた。パパのところにやって来るローパーさんを路地でときどき見かけた。ローパーさんとパパは、家の脇に立ってタバコを吸っていた。二人は何か話をしていたのではと思うが、会話しているところを見たことはなかった。

 パパが死んだあとも、ローパーさんはやって来た。妹はローパーさんが来るのを見るとこう言っていた。「ほら、ミスター・ニキビが来るよ」 それはローパーさんが望まれてもいないのに、現れる人と思っていたからだ。初めは、ローパーさんは来ることを期待されていると思ってやって来るのだと思っていた。でも後に、うちに来ることがあの人の一部になっていたからだとわかった。パパとローパーさんは、ぼくが知るよりずっと前、ぼくの生まれる前からの仲で、タバコや酒をいっしょに飲む関係だった。

 ある日、ローパーさんはぼくに、人間年をとって骨がもろくなったら、学ぼうとしてはいけないことがある、と話した。「自転車に乗る練習みたいにな」と言った。「騙しを学ぶとかも」と、ぼくは心の中で補った。ローパーさんの考えによると、年寄りが何か学ぼうとすると、誰もがするように間違いを犯す、そしてときにそれで傷つく、とのことだった。すでに年をとっている場合は、その傷は骨に居座るだけでなく、死ぬまでそこを離れない、と。

 奥さんのロリーンがどんな人かは知らないが、彼女が30代で家を出ていったあと、ローパーさんがずっと辛い思いをしていたのをぼくは知っていた。ローパーさんの膝の痛みや自転車で転ぶことと、この辛さは関係のないことだけど。奥さんのロリーンを初めてだました、とローパーさんが言ったとき、みんなは信じてないようだった。でもたとえそれが初めてでも最後でも、奥さんのロリーンは、あんな馬鹿げたことで、ローパーさんを置いて出ていくべきじゃなかったという点で、皆の意見は一致していた。

 インドネシアのある地域では、ザリガニのことをダマシエビ(ウダン・セリングー)と呼んでいる。カニとエビが結婚して子を産んだ、という寓話があって、異種間に生まれた生きものはエビのように見えるが、カニの爪をもっている。ザリガニはこのようにして生まれ、なるべくしてああなったと人は言う。サソリがカエルを刺してしまった話にもあるように、だますことは「我々の本性」だから仕方ないということか。

 ぼくの若い頃のセックスは、詩的につくりあげられたものでも、カレッジの文学の授業から得た知識によるものでもなかった。それは粗野で無作法、どこにでもいくらでもころがっていた。誰と誰が寝ているか跡を追うにはスーパーコンピューターがいる。組み合わせや並べ替えは無数だ。そしてぼくらは、温かな股間とまんこの土地に、立派なペニスやちんちんの土地に、おっぱいと固い乳首の土地に、甘い舌とくちびるの土地に住んでいた。 

 これによって、身元の誤認がよく起きた。

 「上着」と言われる、身元を偽る方法があった。ある女が子を産み、その夫またはパートナーが、あんたの子だとごまかされたとき、その夫は「上着」を受けたと言われた。10歳のときにぼくは、たくさんの夫やパートナーが、自分の子の出自を誤って受け取っているのを知っていた。ところで、出自を証明することは、非常に難しいことだ。これ以上に難しいことがあるだろうか? 人生の意味とか? いやちがう。簡単だ。毎日を人生最後の日と思って生き、死ぬときに何が起きるか知らないまま、ただ生きるだけ。アレを比べてみればいい。「ぼうず、おまえの本当の父さんは誰だ?」 あれのサイズを試してみろ! 常に試し、見つけ出すんだ。急ぐことはない。

 このような「上着」は簡単に目につく場合もある。たとえば、『マラサと真夜中』に出てくるような色黒の女が、漆黒のボーイフレンドと住んでいて、地元でただ一つのまともなホテルで働いていたとする。この女は色の白い、カールした髪の、柔らかなブルーの、天使と悪魔の目をもつ子を産んだ。これが「上着」であることは、誰の目にも明らかだ。しかしこの例えを面白くしているのは、女がボーイフレンドにあんたの子だと納得させていること。肌の白さと目の青さは、男の遠い祖先の遺伝子から運ばれてきたスコットランド人の血の名残りだと言うのだ。そしてパパである男は、みんなに自分の姓はキャンベルで、スコットランド人のものだと言ったりした。

 二人のインド人の間で、漆黒の肌の子どもが生まれた場合、ことは簡単だ。あるいは二人の白人の間に黒い子どもの場合。しかしいつも簡単にことは運ばなかった。たとえば二人の黒人の間に、黒い子どもが生まれた場合。目立つ特徴がないかぎり、これが「上着」なのかどうか言うことは難しかった。背の低い黒人二人の間に生まれた息子が、2メートルを超える身長になりそうだとわかった場合、あるいは可愛い団子鼻の二人が、顔いっぱいに広がるジャコウ草のような巨大な鼻の息子を連れ歩いている場合、見分けるのは簡単だ。しかし前にも書いたように、いつもそのような特徴があるわけではない。さらには、たとえ「上着」があるとわかった場合も、父親が二人の兄弟のどっちなのか、同じ時期にセックスした3人のうちのどの男なのか、言えるかどうかは別のことだ。

 また勘違いからコトが起きるケースもしばしばあった。ガーネットとタネーシャの例を見てみよう。

 [ ここでガーネットの息子のことをザッと紹介しておこう。その子は、11歳で、折りたたみナイフと小さなトイガンを腰につけ、仲間を引き連れて歩きまわっている。黒人で貧乏、スラム暮らし、それゆえこの子の人生の選択肢は、刑務所かスポーツ選手のいずれか。しかしここまで、この子は問題なく生きている、まったく問題なく。頭の中は、おじさんのトミーが、金持ちに雇われた運転手にどうやってひき殺されたか、自分のパパがその同じ金持ち、氷工場の主にどのような目にあわされて野獣化したか、の話でいっぱいだった。問題なく生きてる。]

 年を重ねるうちに、ガーネットは自分を「モテ男」と言わなくなり、百万の女をもつ「女長者」と言うようになった。でもここでは百万の中のたった一人を取り上げよう。ガーネットが言ったことをもとにすれば、次のようなことが起きた。

 ガーネットが言うには彼女は処女だった。本当に処女だった。ここまで間違いはない。

 「男というのはプッシーのために高い金を払ったりしない」という理由で、ガーネットは彼女を安い売春宿に連れていった(こいつには売春宿、食べもの、タクシーなどのすべてを合計し、かかった費用を彼女と割り勘にする、という選択肢はあったのだろうか、と思うことがあった)。<彼女はその売春宿を、二人きりで過ごせる居心地のいい場所と勘違いした。>

 ガーネットはクソ音楽(「女にパンツを下げさせる」と言われている歌の数々)のつまったCDを持参したと言った。<彼女はそのCDを、二人で過ごす時間のために男が集めたロマンチックな歌と勘違いした。>

 ガーネットは彼女とただファックしたかっただけだった。まだ処女とやったことがなかったからだ。クーチーはすごくキツくて、このキツさに彼女自身が締め上げられているようだったと言った。ガーネットは子どもなど欲しくなかったし、彼女が耐えているキツいところを緩めてやろうとしただけだ。[ この子と、お腹がぺたんこで何か中に入れる必要があるとガーネットが思ったマーシャへの追っかけと比べてみてもいい。それが家に招いて、飲み物と子どもを授けた理由だった。さらには、15歳の彼女には自分の家族が必要だと思った。] <タネーシャはガーネットが自分に興味をもったのは、自分を気に入り、頭がよくて学校に行こうとしていると感じたからだ、と勘違いした。>

 ガーネットは自分のブツで、彼女のクーチーを激しく掘ったと言った。<彼女の方はそれを男の経験のなさと興奮のせいと勘違いした。>

 ガーネットは彼女におまえは特別な女だと言った、と言った。それはある意味その通りだったし、彼女がこの瞬間がどれだけ素晴らしいか、といったタワゴトをずっとガーネットの耳にささやいていたので、そう言ったまでだとガーネットは言った。<彼女の方は、自分のことを愛してると勘違いした。>

 それ以降、ガーネットは彼女に会いになど行かなかった、と言った。

 この話を聞いたとき、ぼくはこいつが芯から嫌になった。それはぼくがタネーシャのことを好きだったからだけでなく、ガーネットにとって女の子を手に入れることがあまりに簡単だったからだ。太った子、痩せた子、クーリーの子、田舎の子、町の子、よそから来た子、中国人の子、その他もろもろ。ガーネットはいつも女の子の話をし、そのどれもが酷いものだった。あいつはある女の子を壁に押しつけて溝の中に落とし、アリンコが彼女を刺すので逃れようとしているのにそれを許さず、激しい一発をやった、と言った。あいつは笑ってた。そしてスタンディング・オベーションに拍手喝采。

 ぼくの話はあれこれ付け足していると言う人がいるかもしれない。そいつらのことを責めたり、オベアマンのところに持ち込んで仕返ししようとしたりはしない。しかし、これはぼくが当時を振り返って、どのように問題をときほぐし、その断片を集めて一つにしたか、ということだ。

 で、「上着」にまつわる出来事を話したのは、自分のことを話すためでも、ぼくの本当のパパが誰なのかを27歳のときに知ったからでも、ついにパパに会えたたとき、パパがスコットランド人の姓であることをいかに自慢にしていたか言うためでもない。これらのことは、大局的に見たときにさほど重要ではないし、自分の人生を理解しているときに、その人生がどんなものだったかあれこれ考えるのは意味がない。

 ぼくがこういう話をしたのは、結末に大きな違いが生まれたからだ。たとえばトミーに関することだ。

 ことは父親だと言われている男が、あってるか間違ってるか別にして、自分の子ではないと思ったときに起きた。そのような父親は、自分に似ていると思われる子だけ飯を食わせ、学校にやることを請負う。誰が明らかに「上着」なのかは、父親にあまり似ていないことから、そして(父親の子だと言われている中で)一番痩せている子や、皆が学校に行っているとき、家に残って泥んこ遊びをしている子を探せば、誰にもわかる。その子たちは夕飯を最後に、いちばん少なくもらう。そしてこれはたいてい、父親とされている男が寝た後、こっそりと行なわれた。また掃除などたくさんやることがあったから、外に出てくるのは一番最後で、少ししか遊べなかった。

 これはトミーの場合に当てはまった。トミーの「上着」の父親ではないかと思われる長生きのボブおじさんは、トミーはこの敷地内の最後の「私生児」の一人と思っていた。

 「汝隣人を愛せよ、しかし夫に見つかってはいけない」 トミーのママは真夜中、夫が家に帰りつく前の時間に、どこかに出ていって、誰かと愛しあったように思える。しかしこれは単なる噂話だ。

 トミーは家で、追放者みたいに扱われていた。

 こういうことはしばしば起きたし、のちに、ガーネットの最初の子(息子)はガーネットのママの元に残され、育てられた。定職がなかったガーネットのパパは、食い扶持が増えることを嫌い、その子を邪魔者扱いした。一人をトラックに轢かれ、もう一人を犬に無残に食われたガーネットのママの方も、孫に愛着はなかった。ガーネットの息子は、トミーがそうしていたように、追放者のように暮らし、自分で自分の面倒を見た。そんな風に、ぼくは教えられた。

 

『唯一確かだと思うこと』

この謎々を当てさせて

たぶん当たらない

ぼくの息子はぼくを愛してる

いや愛してない

たぶん愛してない。

ぼくの妻はぼくを愛してる

この愛はつづくだろう

彼女はぼくを愛してる

以前の妻たちよりずっと

妻はぼくを愛した

いや愛さなかった。

ぼくのパパはぼくを愛した

ぼくだけ愛した

パパはぼくを愛した

自分の子であるかのように

パパはぼくを愛した

いやパパはぼくを愛さなかった。

ぼくの父親はぼくを愛してる

会ったのは25歳のときだったけど

父はぼくを愛してると思う

ママが死にそうになってたときそう言った

父はぼくを愛してる

いや父はぼくを愛してない。

ママはぼくを愛した

ママはそう言ったと思う

ママはぼくを愛した

死の床ですべてを語った

ママはぼくを愛した

いやママはぼくを愛さなかった。

 

これがぼくが唯一確かだと思うことだ。

 

日付のない日記帳から

 

 人生には、ぼくの理解を超えることがたくさんあると、今後もあるだろうと、ぼくは学んだ。いろんな意味で悲しいことだ、セミコロン、でもなんとかうまくこなすことを学んできた。ぼくは、自分にもう関係しないことを理解しないまま死ねるくらい、充分長く生きてきたと思う。確かな証拠を見たのちに、人がいかに変わるか、そして問いも答えもなしに受けいれるか、それを理解する人は少ない。

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