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Bruce Duffie インタビューシリーズ(3)

音楽家と音楽業界を後押ししたスペシャリストたち

This project is created by courtesy of Bruce Duffle.

Radio  Host

❺カール・ハース

カール・ハース
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人気ラジオ番組「Adventures in Good Music」のホストを40年以上つとめたラジオホスト。この番組はクラシック音楽を毎日、一つのテーマで聞かせるもので、1970年にクリーブランドのWCLVが番組を世界配信しはじめたことで、世界中にファンをもっていた。長い放送の間に、2度の栄誉あるピーボディ賞*を受賞。また全米人文科学基金のNational Humanitiesのメダルを受ける。1997年、アメリカ・ラジオ殿堂入り。詳細

*ピーボディ賞:アメリカのテレビ、ラジオ、ウェブサイトの優れた放送作品に贈られる賞。アメリカ放送界における最高の栄誉とされ、放送界のピューリッツァー賞と呼ばれる。(Wikipediaより)

インタビュー 1989年10月28日、シカゴにて

(書き起こし:2009年、ブルース・ダフィー)

 

 

WNIB*が「Adventures in Good Music」を放送していたと言えることを嬉しく思います。毎週月曜から金曜の午後7時、たくさんの熱心な聞き手を集めていました。聴取者の中には、カール・ハースが毎晩、このシカゴのスタジオから放送していると思っていた人もいるようです。わたしたちは電話や手紙を受け取りましたが、その多くは彼の考えや曲のセレクションに、非常に好意的でした。

*WNIB:シカゴのクラシック音楽専門局。ブルース・ダフィーのインタビューもここで放送されていた。

 

何回かは、ハースがここシカゴまでやってきて「コンサート*」をやりました。彼がピアノで曲を弾いて解説するという、いつものやり方で、放送の時間枠を超えて行なわれました。しかしいつもチケットは売れきれ、それが放送局の経済的助けになりました。彼が全米をまわっている理由の一つは、そこにありました。ハースは音楽のために良いことをたくさんしました。そして彼が亡くなった2005年以来、彼の名を冠した年間賞が設けられています。

*コンサート:ハースはピアノの前にすわって、ピアノを弾きながらトークをするというコンサートをしている。ときにゲスト指揮者として、オーケストラの指揮棒を振ることもあった。

 

このインタビューは1989年の秋、彼がシカゴを訪れたときに行なわれました。クラシック音楽の地平を広げることに深く関わった人物、わたしがここで何年もの間に会話をもった、たくさんの音楽家たちとは大きく違う視点をもったその人とおしゃべりするのは、非常に楽しい経験でした。機知に富んだところを見せつつ、わたしが取り上げた話題に対して、大真面目な態度を見せ、また人々や考えについてはっきりとした意見を持っていました。

 

以下がそのときの会話です。

ブルース・ダフィー(以下BD):あなたは番組で、聴取者は非常に多様な人々である、といってますね。それは事実なんでしょうか、あらゆる職業や地位の人々が、日々あなたの番組を聴いているというのは。

 

カール・ハース(以下KH):手紙を見ると、そのようだね、いろいろな人がいる。

 

BD:あなたの多様なプログラムが、さまざまな聴取者からの反応につながっているのではと思うのですが。

 

KH:聴取者がどんな人か、気にしたことがないんでね。自分の愛することをやって、火をつけられる聞き手がいてくれたらと願ってるんだ。手紙から、あるいは直接的な体験から判断して、そういう人たちがいるね。アラスカのフェアバンクスでコンサートをしたとき、あとで若い空軍中尉がわたしに会いにやってきた。彼はAFN*でわたしの番組を聴いていて、シベリアとの国境地帯、アリューシャン列島の外れで任務していた。彼はコンサートのために、3000キロを飛行機に乗ってやってきた。そうかと思えば、バンパーステッカー・コンテストに駆り立てられるトラック運転手ももちろんいるよ。お金と教育のある人だけがクラシック音楽を楽しんでいる、という間違った理解を正せて嬉しいよ。わたしの人生で、これほど大きなナンセンスを他に聞いたことがないね。音楽がすべての人のものでないなら、他の何がそうなのか、わからないよ。わたしは社会全体について言ってるんじゃなくて、交響曲と関係する社会、そこで見られる人、という意味で言ってる。

*AFN:世界各地の米軍が駐留する地に設けられた基地関係者とその家族向けのラテ兼営放送局(ラジオ部門、テレビ部門、ニュース制作部門の3つから成る)であり、米軍の商標である。日本でのサービスは、1997年までFENと呼ばれていた。(Wkikipedia日本語版より)

 

BD:あなたの番組がなければクラシックを聞かないだろうたくさんの人たちを、あなたが引きつけてる、その一因になっているのでは。

 

KH:そんな風には、まったく考えたことがないよ。さっきも言ったとおり、自分の愛することをやってるだけ。それがうまく働くなら、すごくいいね! よくこう聞かれる。「誰に向かって話してるんです?」ってね。答えはマイクだ。誰か特定の人々に向かって話す、っていう意図はない。シカゴ交響楽団やニューヨーク・フィルハーモニックのチケットを買う余裕のない人たちが、わたしの聞き手の中にいることに幸せを感じてるんだ。チケットを買って支えている人々には感謝しているけれどね。でもその人たちは、音楽を本当に好きだけれどチケットを買えない人、コンサートに行くのに似つかわしくないと感じてる人を、その態度で遠ざけてもいる。

 

BD:ではあなたはその垣根を壊そうとしている?

 

KH:そうしたいものだね。もうそうしていい時期じゃないかな。もし世界屈指の指揮者たちが、ときに聴衆の方にむいて何か言うようになったら、すごくいいと思うね。ホールに遅れてきた人やのど飴の紙をはがしている人に向かって、不満の声をもらすよりずっとね。彼らは自分をそうとう重要人物扱いしてるんだな。

 

BD:ではあなたは指揮台の上から、作品についての生きた言葉を投げかけるのがいいと。わたしが知る人では、レナード・スラットキンくらいですね。

 

KH:その点で彼は素晴らしいと思うよ。他にもそういうことをする人はいる。バーンスタインはやってたね。そう、間違いなくやってたと思う。思うに、指揮者というのは、後ろから過大評価されて、前からは過小評価されてるね。(両者、笑)

*後ろからというのは背を向けている聴衆、前からというのは面前にいるオーケストラのメンバー。オーケストラの奏者から尊敬されていない指揮者はよくいる、という冗談があるほど。

 

BD:指揮者としてのキャリアを積みたい若い音楽家に、どんなアドバイスをしますか?

 

KH:まずは、その人間がアメリカ生まれで、海外からやってきた者じゃないこと、もうそういう時期にきてる。誰が話してるのか聞くことだ。つまり、わたし自身はここで生まれた者じゃない。でも海外からやってきて、アメリカのやり方を知らず、たいした給料を要求してこない人はどこにいる? ここには優れた能力をもつアメリカの指揮者がいる。レナード*はそのいい例だね、外国人はすべてダメだと言ってるわけじゃない。いま、わたしたちは指揮者をひどく欠いている。ひどい欠損だ。

*レナード:レナード・バーンスタイン(1918~1990年)。20世紀をリードしたアメリカの指揮者、作曲家、ピアニスト。アメリカが生んだ最初の国際レベルの指揮者と言われる。

 

BD:なぜそうなんでしょう。

 

KH:飛行機がすごく関係してると思うよ。あっちからこっちへと飛びまわってる。わたしはユージン・オーマンディととても親しくしていて、彼はいつもフィラデルフィア管弦楽団を中心に置いている、とはっきり言っていた。彼はオフシーズンを除いて、ゲスト指揮者にはならない。シーズンの間、ずっとフィラデルフィアと一緒だ。もちろん休暇はとる、そしてゲスト指揮者も迎えるけれど、街にはいるんだ。

 

BD:彼がすべてを監督してるんでしょうか?

 

KH:すべてに渡ってね。わたしは8週間とか12週間しかやらない指揮者に、信頼を置いてない。もうしわけないけど。そういうのは地域にとってよくないと思う。

 

BD:ではわたしたちは、アメリカ生まれの、アメリカで訓練を受けた指揮者で、シーズンのすべてを一つのオーケストラで過ごす人をもつべきだと。

 

KH:そう。旅をしたければいくらでもしていい、だけどオーケストラの団員は、指揮者とともにあると知るべきだね。家族と一緒にアメリカに来ている人をたくさん知っているけど、家族は必ずしも幸せじゃないんだ。傑出した音楽家としての彼らの地位について言ってるわけじゃない。だけどヨーロッパで訓練を受けた人たち、あるいはヨーロッパ風のやり方で社会にアピールしている人たちが出てきてから、随分と年月が経っている。ここにはアメリカ生まれの、突出した才能の指揮者が何人もいるんだ。どれくらいの月日が経ったことか。わたしは1949年にバーンスタインに初めて会ってる。彼は指揮者のジャッキー・ロビンソン*だったね。

*ジャッキー・ロビンソン:アメリカ人野球選手。1890年頃以降、「有色人種」排除の方針が確立されていたMLBで、アフリカ系アメリカ人選手としてデビューし活躍。様々なタイトルと賞を獲得し、輝かしい功績を残したことで白人系以外の選手のメジャーリーグ参加の道を開いた。(Wkikipedia日本語版より)

BD:そのとおりです。

 

KH:いまはどうだろう? それほどたくさんはいない。デイヴィッド・ジンマンがいて、レナード・スラットキンがいて、、、

 

BD:マイケル・ティルソン・トーマスとか?

 

KH:そうだね。

 

BD:それからロリン・マゼールがアメリカに戻っています。

 

KH:そのとおり。マゼールは桁外れの才能の持ち主だ。彼がニューヨーク・フィルハーモニックを受け入れてくれたらと願うよ。ニューヨークは多くの指揮者から却下されているからね。それからジョン・ネルソンもいる。

BD:ジェームズ・コンロンもいますね。

 

KH:そこで終わりだ。偏狭な気持ちから言ってるんじゃない、でもこれは事実なんだ。

 

BD:わたしのオーケストラに対する不満のいちばんは、彼らがアメリカの音楽をやらないことなんです。スラットキンはアメリカの音楽界に持ち込んでくれて、かなりの数が演奏されました。彼らは楽曲の委嘱もしてきました。エレン・ツウィリッヒは去年、トロンボーン協奏曲を書いて、いまもう一つ書いてますね。

 

KH:実のところ、アメリカ生まれの指揮者は、ヨーロッパからやって来た人たちより、アメリカ音楽に大きな関心をもってるとは思わないかい? ヨーロッパから来た人というのは、アメリカの生活の主流にはならない。彼らみたいにあちこち飛び回っていたら、そうはなれないよ。アメリカでは、ヨーロッパで指揮者がやっている以上のことを、一人の指揮者に期待している。

 

BD:どうしてでしょう?

 

KH:ヨーロッパでは指揮者は、自分のベストの指揮をする。たとえばカルロ・マリア・ジュリーニを知ってるが、彼はわたしの目からは、出しゃばったことを言えば、シカゴ交響楽団がかつて持った最高の指揮者だ。間違いなく、彼は唯一、本物のカラヤンの後継者だね。傑出した指揮者だね、あの男は。何年か前にアムステルダムで彼に会った。彼はこう言った。「アメリカには行くつもりが全くないんだ」 わたしが言った。「どうして?」「要求されることのすべてを果たせないからだよ。わたしは社交家じゃない。パーティ好きじゃないんだ。資金集めには向いてない。公的な人間ではない。いいコンサートをするために、できるだけのことをするだろうけど、それ以外のことには向いてない」 で、少ししてから、彼がやって来たとき何が起きたか、わかるだろう。この件について、あからさまなことを言って悪いけど。

 

BD:いいえ、いいことですよ、これについてはっきりした意見があるのは。「並み」の音楽家についてはどうです? ある人間が上達して、オーケストラのバイオリニストとかバスーン奏者になろうとする。そういう人たちにはどんな助言をしますか?

 

KH:あー、いつだって傑出した人には居場所があるだろうね。もちろん難しいことだ。バイオリニストになるのは、バスーン奏者になるよりずっとやさしいことだ。オーケストラにバスーン奏者は二人しかいらない。バイオリンの方は20人だ。デトロイト交響楽団でゲストとして指揮をしたときのことを思い出すね。わたしたちはリハーサルで『ニュルンベルクのマイスタージンガー』をやった。終わりのところにワーグナーが巧みに織り込んだ三つの重なるテーマがある。わたしのやり方ではいつも、チューバとチェロとコントラバスの方に向くんだ。その三つがそこでメインテーマを鳴らすからね、そのまわりに補助的なテーマが織り込まれる。だからわたしはこの壮大なチューバの音を聞き、そしてそっちを見る。楽譜台の後ろにいる人間の顔は見えない。そうこうするうちに、スタンドの両側にふくらんだほっぺたを見ることになる。チューバを吹いていたのは、若い女の子だとわかった。メンバーのチューバ奏者が演奏できないので、彼女が代わりに吹いていた。補欠要員だったんだ。素晴らしい演奏家だった! リハーサルのあとで彼女のところに行って、こう言った。「わたしのところから、君の姿はよく見えなかった。音が聞こえるだけでね。その音の素晴らしさに夢中になったよ」 彼女が答えた。「仕事が得られたらいいんですけど。わたしはいつも補欠要員なんです」 それから3ヶ月後くらいに、わたしはサギノー市(ミシガン州)で指揮をした。目で確かめる必要はなかった、あの素晴らしい音がまた聞こえたんだ。同じ女性がまた補欠要員をやっていた。そこにいたのは、たまたま、若い黒人の女性でね、どうでもいいことだけど、彼女は仕事が得られない、それはどのオーケストラもチューバ奏者は一人だからだよ。

 

BD:充分な数、オーケストラがないんでしょうか。

 

KH:そうだね、でもリタイアするほどの年寄りが、そこまでいないこともあるね。(両者、笑) オーケストラの分野は、広く開放されていると思うよ。オーケストラのための未来が用意されている。

 

BD:コンサート音楽の未来全体に対して、あなたは楽観的でしょうか。

 

KH:うん、そうだね。とても楽観的だよ。あなたが「クラシックの」と呼ばなかったことが嬉しいね。間違った呼び名だから。その言い方は人々を怖がらせて追い出してしまう。音楽にクラシックなんてない。わたしは「いい音楽」「わるい音楽」と言ってるよ。音楽のことを考えるとき、この二つがあるだけだ。いい音楽は殺すことができない。わるい音楽は引き上げることができない。いい音楽は、本質的な素晴らしさと同義で、それによって生き残る。クラシックが意味するところはそれだね。「クラシック」という言葉によって表しているのはそういうことだ。しかし多くの人は、その用語にうんざりさせられている。充分な知識(教育)がないと感じてるわけだ。商業放送をいくつか知ってるけど、たとえばニューヨークのわたしの番組をやってる局で、コマーシャルでこう言ってるのを聞く。「この番組を聞いているあなたは、お金持ちで、音楽について教養があるでしょう。わたしたちの番組はそのためにあります」 まるで外国の車かなんかみたいに「あなた向けです」と言ってる。これを聞くと頭にくるね。

 

BD:あなたがやろうとしていることと、正反対ですね。

 

KH:完璧にね! そういう局の社員じゃなくてよかったよ。でもコンサート音楽については、いつでも将来が、いや将来というより、もっと先の未来もあるだろうと思うよ。わたしたちが気をつけていなくちゃならないのは、地域社会が要求された入場料を払えるかどうかなんだ。経験や音楽の質に見合った出演料を、オーケストラの団員が得ることには大賛成。もし団員の最低賃金が、1年で52000ドルであればふさわしい金額だ。しかし年間100万ドルに見合う指揮者はいない、まったくね! 受け入れがたいことだと思うよ。

 

BD:聴衆を呼び込むような指揮者であっても?

 

KH:そうだ、聴衆を呼び込む指揮者だったとしてもだ。その半分の出演料でも、聴衆を魅了する指揮者はいる。それは指揮者だけのことじゃない。ソリストについてもそうだ。予算がオーケストラを殺してしまう。そしてどんどん値は上がるばかりだ。

 

BD:平均的なバイオリン奏者は、平均的な三塁手とかフルバックの人に支払われているくらい得るべきでしょうか?

 

KH:そうね、あなたはアメリカの状況について話してるでしょう。それは難しいね、まず野球のシーズンはずっと長いし、利益も大きい。シーズンオフがあったとしてもだ。オーケストラホールは2000席くらいでしょ。野球とは比べものにならない。スポーツと文化的な価値とは、収益の点で比較にならない。

 

BD:価値について言ってるんじゃないんです、ただ演奏家もそれくらいの収入を得るべきじゃないかと。非常に微妙な境界線とは思いますが。

 

KH:最近じゃあ、野球選手やバスケットの選手は、年間100万ドルくらいで5年契約をしているね。常軌を逸してる。

 

BD:それはスター選手でしょ、平均的な選手は30万ドルくらいですよ。

 

KH:もしわたしが年間50万ドル以上稼げたら、恵まれない学生のための奨学金制度をつくることができて幸せだ、と公言している。そういう風に使うよ。そんな大金を必要としてる人間はいないだろ。シカゴとかニューヨークとかボストン、フィラデルフィアのような都市のことを言ってるんじゃない。もっと小さな街のことだ。商業、産業界はいまや一般的な基金に寄付をしようとしない。単に都合をつけることができないってことだ。

 

ニューヨークに越してくる前、デトロイトに長く住んでいた。4人の自治体の長の元、芸術評議会の議長を務めていた。州にある主要オーケストラのために、何か始めるべきだったと思ったね。ヨーロッパをまわるんじゃなく、州内を旅するといったね。州のため仕えるんだ。わたしがグランドラピッズ 交響楽団やサギノー交響楽団、フリント交響楽団から話を聞いてからは、州知事も他の人たちも、素晴らしいアイディアだと思った。わたしたちはどこかに一線を引く必要がある。わたしは州にある一番のオーケストラのことを考える。シカゴ交響楽団とか、あなたがシカゴの人だから言ってるんじゃないけど、素晴らしいオーケストラをもっている。でもシカゴ交響楽団がヨーロッパや共産圏にまで行くことより、イリノイ州内で演奏旅行しようとするなら、それによって達成できることは何か。地域の人のために演奏するべきじゃないか。

 

BD:どうしてその両方をすべきではないんでしょう?

 

KH:それが可能なら、大賛成。

 

BD:シカゴ交響楽団は定期的に、州南部にツアーしてます。シーズンに2,3回くらい。

 

KH:ああ、それは素晴らしいね。

 

BD:そして2,3年おきにヨーロッパへ行ってます。それくらいの比率ですね。

 

KH:わたしの言ってることを誤解しないでほしい。これは主要オーケストラのどこにも当てはまる真実なんだ。そういったヨーロッパへのツアーは素晴らしい、でも結局のところは、指揮者のための身勝手なツアーになってる。誰か特別な指揮者について言ってるわけじゃない。しかしながら、もしオーケストラの団員と話せば、金を失ってるとわかる。その人たちは教師としてのスケジュールを捨てなければならない。日当は手にできるが、すぐに家に帰って収入を補充しなければならない。1960年代初頭に、フォード財団の長として、ある文化プロジェクトのためにベルリンに行ったことを思い出すね。ピッツバーグ交響楽団がロシアでのツアーからアメリカに戻るところで、ウィリアム・スタインバーグが首席指揮者だった。わたしはベルリンの役人何人かをコンサートに招いた。彼らには通じなかった。ピッツバーグだって??? 誰がピッツバーグのことを考えるだろうか? そういうオーケストラっていうことだ。それだけのことだ。次の日には忘れられる。ロシアからの帰り道だったから、ベルリンにちょっと寄るのもわかる。でも100人の人間がヨーロッパの旅をするのは、非常に高くつくプロジェクトであり、誰かがつけを払うことになる。

 

***

 

BD:誰かが道で、あなたのところにやって来て、「あなたがコンサート音楽をプロモートしている人だと知ってます。どうしてわたしがコンサート音楽を聞かねばならないんでしょう」と言ったらどうです。

 

KH:わたしの答えは「聴いてみてほしい、好きになるかもしれないよ」だね。そういう質問は受けたことがある。以前にデンバーでコンサートをしたときに、一人の男が楽屋にやって来てこう言った。「妙な質問をしたいんですが。わたしはビジネスで成功した者です。家族を愛してます。妻を愛してますし、一緒にいて素晴らしい時間を過ごしてるんです。スポーツも大好きです。ゴルフもします。妻と一緒に泳ぎもします。あれやこれやわたしたちは一緒にやるんです。音楽なしでやっていけます。わたしに何か悪いところはあります?」 わたしはこう答えた。「そうね、あなたは不適切な人間にその質問をしてると思うよ。でもあなたは今までに、そのことで批判されたことがあるんでしょうか?」「いや、今回が初めてのコンサートなんです」「楽しみました?」「とても!」 で、わたしはこう言った。「もう一度試してはどうです? 他の趣味にそうしているように、音楽にも同じようにチャンスを与えなくては。それから決めたらどうです。そのとき、自分の考えを家族に押しつけないこと。子どもたちは自分たちの好きなもので成長させたほうがいい」

 

BD:多くの子どもたちはロックだけ聴いて育ちます。

 

KH:まあ、それはよくあることだね。

 

BD:どうしたら彼らをもっとコンサートホールに呼び込めるんでしょう。

 

KH:わたしのところには、若い子たちがたくさんいるよ。

 

BD:もっと呼び込むにはどうしたらいいのか。

 

KH:たとえば、昨日、わたしはここの高校であるプログラムをやった。300人の学生がそこにはいた。彼らがわたしの言うことを聞いてくれるか不安だった。彼らは最後までいてくれて、喝采してくれた。そして明日のコンサートに来たいと言った。状況次第だね。若い人たちを集めてコンサートホールに連れてくるのに労力はいらない。ただ若い聴衆のためのコンサートがいい考えだと思ったことはないんだ。彼らは客席にじっとすわっている習慣などないからだ。紙くずの玉を投げあってる。(両者、笑) 

 

わたしはオレゴン州の農場で実験的プログラムをスタートさせた。誰もそこから報酬を得なかった。オレゴン公共テレビからユージーン市のオレゴン大学の先生に至るまで、全員が無料奉仕した。彼らは8歳から11歳までの素晴らしい少年合唱団をもっていて、州の中を旅してる。わたしは彼らを農場(わたしの若い友人夫妻のものだった)に連れていった。わたしたちはあらゆることをしたね。子どもたちは演奏した。わたしはアメリカの素晴らしい作曲であるノーマン・デロ=ジョイオのところに行って、これからしようとしていることを話した。彼はこう言った。「いいことを思いついた。テキサス教員組合から、彼らのために曲を書くという委嘱を受けたところなんだ。ピアノ連弾のための曲で、曲の途中に子どもたちが歌うユニゾンの合唱がある。平和を祈る歌だ」 わたしは言った。「ノーマン、やろうじゃないか」 彼が楽譜を取り出した。わたしたちはやってみた、そしてわたしは舞い上がった。それをオレゴンの合唱の指揮者に送った。試奏テープでね。わたしは10歳の女の子とデュエットでピアノを弾いた。彼女は素晴らしかった。曲をやっているとき、わたしは彼女に説明しようとした。10歳の子どもにどうやって説明したものか。こうわたしは言った。「あのね、リサ、これがシリーズになるときは、わたしが一緒に弾くわけじゃないんだ」 彼女が叫んだ。「わたしがうまく弾けてないっていうこと?」 わたしが言った。「きみは素晴らしいよ」「じゃあ、なんでわたしと弾かないの?」 わたしはこう答えた。「わたしたちは曲を書いた作曲家を、きみと弾くために招いているんだ」 すると彼女が言った。「でも作曲家ってみんな死んだ人でしょう」(両者、笑) 

 

パイロットテープはいま、聞かれるのを待っている。実際、大きな会社の会長から非常に魅力的な誘いをもらっていた。それを放送に乗せるというね。わたしはこう答えた。「大変もうしわけないんですが、断らせていただきます」 彼が言った。「きみはいったいどういう人間なんだ?」 彼は融資をしたかったんだ。わたしはこう言った。「わたしたちは手をつける前にシリーズをやる必要があるんです。もしわたしがあなたの素晴らしい提案を受けたら、一度きりのものになってしまいます。そして終わってしまう。シリーズでやるための他の資金源を探させてください。そうすれば、喜んであなたにお願いするでしょう」 子どもたちは音楽をやっていない。音楽教師全国会議をとおして、学校の48%は音楽をやっていないと確認したんだ。

 

BD:まったくでしょうか?

 

KH:ないね。で、あなたはコンサート音楽の未来について聞いたでしょ。もしこの状態をつづけたら、25年後に誰がシンフォニーを聞きに行くだろうか。政府からの支援はなく、他の何であれないんだから。

 

BD:全米芸術基金からの援助もない?

 

KH:基金は今また支援をやめている。ブッシュ大統領は、基金は他のことにまわせるよう支援を削減する必要があると発表した。最終的な結論として、わたしたちは政府に関わってほしくはないわけだ。それがアメリカと他の国々と違うところだね。しかしわたしたちは、指揮者やオーケストラの未来を心配する前に、聴衆を確保していく健全な方法を見つける方がいい。なぜなら聴衆がいなければ、すべてが無に帰するからだ。

 

BD:ホワイトハウスにあなたの日々の放送を送ってみては?

 

KH:いや実際に、ホワイトハウスの公式晩餐会に出席はしたんだ。レーガンの時代だったね。ある日ホワイトハウスの便箋で手紙をもらった。「あなたの番組が大好きです。ランチに来てください」とね。それは大統領からではなかった。スピーチ原稿を書く人の中の一人からのものだった。その人は何でもないことと思っていた。番組はワシントンでも放送されていたから、わたしはそこに住んでいるんだろうと。で、わたしは飛行機に乗って、行ったわけだ。彼はわたしをホワイトハウスの会食に連れ出した、その考えに夢中になってた。彼はこう言った。「政府の適切な人に紹介しましょう」とね。だけど運悪く、政権が変わるまで*あまり時間がなくて、また最初からやり直しだ。

 

でも励みになることが起ころうとしている、と思う。ニューヨーク・タイムズで、シャーロン・ロックフェラー*が、ワシントンの公共ラジオ放送の社長候補に上がりそうだと言っていた。わたしはミセス・ロックフェラーをたまたま知っていて、彼女はこういうことに非常に関心があるんだ。だから彼女が行動をともにする人を見つけて、アイディアを支援してくれたら、子どもたちのために何かできるんじゃないか。これはわたしの熱い思いなんだ、子どもたちのために何かやりたい、というね。わたしはシンフォニー用にアレンジされた「イエスタデイ」と「ミッシェル」を指揮する。この二つはずっと好かれている曲だ。クラシックになったビートルズの曲だ。意味合いとしてのね。あの二つの曲はクラシックになったんだよ。それでいいんだ。わたしはロックに対してもともと反対じゃない、大騒音は別にして。かまわないんだ。子どもたちに欲求がなかったとしても、違った種類の音楽を知る権利があると思うね。それでもし何パーセントかの子どもが、いつかそれを聞くようになったら、わたしたちには未来がある。でも彼らにその機会を与えなければ、望みは薄い。

*政権が変わるまで:レーガン大統領からブッシュ大統領(父親)に変わるまで。

*シャーロン・ロックフェラー:ウェストバージニア州のロックフェラー上院議員の妻で、イリノイ州の上院議員チャールズ・パーシー上院議員の娘。

 

BD:つまりすべては彼らを励ますことでしょうか。

 

KH:そう思うね。わたしは6歳のときから音楽に恋をしつづけてきた。わたしが何になりたかったかという意味で、疑いはまったくない。わたしは運がよかった。自分にこう尋ねたことはない。「これから自分に何が起きるのだろう。何をしたらいいだろう」とね。たとえ火の中水の中でも、音楽家になろうとしていた。その両方(火も水も)来たけどね。数え切れないほどの障害があった、大変な道だったよ。だから何であれ何かをつづけることに寄与するのは、自然なことなんだ。わたしの考えでは、今日、音楽は分裂ではなく調和のための唯一のメディアだと思ってる。ホワイトハウスに提案をしたことがあるんだ。サミット会議の最初と終わりに音楽を流したら、とね。ホスト国の音楽あるいは参加国の音楽をね。リーダーと呼ばれる人たちは、ミサイルや弾頭をどれだけ発するかといった地球の運命を握ってるでしょ。でも彼らも、自分たちの預かり知らない古い時代の文明を失うリスクに気づいてはいる。ゴルバチョフがホワイトハウスに来て、ヴァン・クライバーン*が演奏したときのことを覚えているかな?

*ヴァン・クライバーン:アメリカのピアニスト(1934~2013年)。1958年、第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝。冷戦下のソ連で優勝したことでアメリカの国民的英雄となる。コンクールではクライバーンの演奏に、聴衆の8分に及ぶスタンディングオベーションがあったり、ソ連の名ピアニストで審査員だったリヒテルが、満点の評価を与えたと言われる。(Wikipedia日本語版より)

 

BD:ええ、覚えてます。

 

KH:ゴルバチョフの顔に灯がともり、一緒になって歌いだしたのを覚えているかな。敵対していた者もひとたびそうなったら、単なる言葉や条約以上のところまで、人はたどりつける。それは人間の精神に触れているからだ。

 

BD:きっとあなたは新しいバンパーステッカーをつくるべきなんでしょうね。音楽をつうじて平和を、といった。

 

KH:うん、悪くないね。わたしたちの文化の中のあらゆる媒体、あるゆる規律とか活動は、話し言葉をもっている。音楽はそれを必要としない唯一のものだ、分裂ではなく調和を実現できるね。わたしがなぜ音楽を懸命にやるのかの理由だ。そこには素晴らしい未来があるからね。希望はあるのか、とあなたは聞いた。もし音楽を通して希望がないなら、どこにも希望などないだろう。

 

BD:でもあなたは音楽の中に希望があると感じてるんですよね。

 

KH:疑問の予知はない。いろいろな方法の中に希望とその実現が見えるのは、すごく刺激的なことだよ。若い人たちはわたしたちが話題にしているような音楽を好きじゃない、というのは間違った考えだと思うよ。機会あるごとに、わたしは「クラシック」という言葉を使わないようにしている。若い人たちがしばしばコンサートのあとで舞台裏に来て、どれだけ「こんなに音楽に共感をもったことはありません」と言うか、想像もつかないだろうね。

 

***

 

BD:あなたは指揮者が一つのオーケストラに何年もとどまることを、何シーズンもそこで指揮することに先ほど触れました。わたしたちはシカゴ交響楽団で、何年かそれを体験しました。フレドリック・ストック*はここにいて、ここに住み、ここで仕事をしていた。彼は首席指揮者でしたし、何年間かはただ一人の指揮者だったんです。

*フレドリック・ストック:ドイツ出身のアメリカの指揮者、作曲家(1872~1942年)。1905年にシカゴ交響楽団の音楽監督となり、37年間の任期をつとめた。フィラデルフィア管弦楽団のオーマンディと並び、アメリカ人指揮者任期の最長記録となっている。(Wikipedia日本語版より)

 

KH:そしてムーティが来た、彼はフィラデルフィア・サウンドをつくりあげたけど、シカゴではそれをしなかった。どうしてそうなのか。

*フィラデルフィア・サウンド:ユージン・オーマンディの指揮するフィラデルフィア管弦楽団の響き、音色が「フィラデルフィア・サウンド」(または「オーマンディ・トーン」)とされていた。弦を中心にした磨きぬかれた音色が特徴で、後期ロマン派音楽の演奏に大いなる力を発揮した。(Wikipedia英語版より)

 

BD:ストコフスキーはすごく長くやりましたね!

 

KH:最長の在籍だった、45年間、オーケストラ(フィラデルフィア管弦楽団)のトップにいた。オーマンディも信じられないくらいの長さだね*。

*オーマンディはフィラデルフィアで42年間指揮をとった。

 

BD:そして彼は、当然、ストコフスキーのつくりあげたものを引き継ぎましたが、、、

 

KH:そう、オーマンディはそのことが知られるよう、とても望んでいたね。そのことを話したときのテープがあるんだ。彼はこう言っていた。「忘れちゃいけない、わたしじゃなくて、ストコフスキーがやったことなんだ」とね。わたしはこう返した。「ちょっと待ってください。今ではストコフスキーのことを覚えている人なんて、オーケストラにいませんよ」 するとオーマンディは「わたしは間違いをたくさん犯したけど、謙虚さをなくしたことはないんだ。わたしは自分の成したことで尊敬されると同時に、それに値しないときにも誇大な称賛を受ける」と言った。

 

わたしはタングルウッド音楽祭に毎夏のように行っていたけど、クーセヴィツキーはいつも誰かを特別プログラムとして呼んでいた。ヴァージル・トムソン*がやって来た。覚えているのは、それは土曜日のことで、彼は音楽誌がどのように機能するかを話した。トムソンは手短にこう言った。「明日、世界最高のオーケストラであるボストン交響楽団が、世界最高の指揮者であるクーセヴィツキーのもと、世界最高の作曲家であるチャイコフスキーの音楽のみを、世界最高のバイオリン奏者であるヤッシャ・ハイフェッツをソリストに迎えて演奏する。バークシャー・プレイハウスでは明日の午後、同じ時間に、マジー・テイトが歌曲のリサイタルをやる。音楽誌がどう扱うか、知りたいかな? わたしはマジー・テイトを守るためにそっちに行こうと思ってる。なぜなら結果は見え見えだからだ。タングルウッド音楽祭でこのコンサートについて、何か言われることがあるだろうか?」

*ヴァージル・トムソン:アメリカの作曲家(1896~1989年)。1949年に映画『ルイジアナ物語』の音楽でピューリッツァー賞を受賞。

 

BD:クーセヴィツキーはアメリカ音楽の素晴らしい指揮者です。

 

KH:そう、その通りだ。オーマンディもそうだった。彼の生誕90年記念をたたえる番組を録音したんだ。わたしは敢えて、彼のことを間違って捉えられるような、チャイコフスキーなどを排除した。わたしはショスタコーヴィチの『交響曲第1番』でスタートした。それは彼がアメリカに持ち込んだ曲なんだ。それからバーバーの『バイオリン協奏曲』をやった。これはオーマンディによって初めて、バイオリンのアルバート・スポールディングとともに演奏されたものだ。わたしはラフマニノフの『交響的舞曲』の中の1曲をやった。これはラフマニノフがオーマンディに捧げたものだ。そしてこの二人の間で交わされた手紙を読んだ。二人は互いのことをよく知っていた。それからシベリウス、彼とも非常に仲がよかった。わたしは意図して20世紀の音楽を集中してかけた。オーマンディは巨人だと思うね。

 

BD:わたしはあなたの番組が、アメリカの作曲家の音楽をかけるとき、いつも嬉しくなります。あなたの番組でさえ、アメリカの音楽は少なく、まれです。もう少しあれこれかけてもいいのでは。

 

KH:ああ、その通りだね。確かに、もっとやるべきだ。テーマによるね。わたしが何に直面しているか、わからないだろうね。わたしが対してるのは、トラック運転手だったりする。厳しいことを言ってくる手紙をもらった。「あんたは音楽のアーチー・バンカー*になるつもりか?」とね。これはトレーラーで重い荷を積んで、国中を走りまわる運転手からのもの。「道を走る紳士たちのことを話してるわけだよね。でもわたしは女でね、でかいトラックを運転してるの!」 あるいは、わたしは夫婦の愛情に関する音楽についての番組をやる。すると即座に同性の間の愛について聞いてくる手紙を受け取るわけだ。

*アーチー・バンカー:1970年代のアメリカの人気ホームドラマ『All in the Family』の主人公(元軍人、労働者階級で、女性を低く見る古いタイプの男だが、最終的にその姿勢は寛容になっていく)。この役を演じたキャロル・オコナーは、プライムタイム・エミー賞など数々の賞を受賞。

 

BD:ベンジャミン・ブリテンの全作品をたびたびやればどうです。

*ベンジャミン・ブリテン:テノール歌手ピーター・ピアーズが、彼の生涯にわたるパートナーだった。

 

KH:わたしもよくそれを考える。とくに作曲家一人の番組にするときはね。舞台の背後の壁面に大きなスクリーンを立てて、作曲家の実像以上の写真を映して、指揮者の手柄を横取りしてほしい。聴衆は立ち上がって、そのポートレイトを見る。指揮者たちは、自分たちを全能だと思っている。作曲家なしで、彼らに何ができる? 

 

BD:これが、あなたが番組でゲストに現存の作曲家を迎えるときの素晴らしいことの一つですね。作曲家をステージにあげて、聴衆が称賛を送ります。

 

KH:そうだね。

 

BD:それが起きると、わたしはいつも声をあげて、喝采してるんです。ほんとに素晴らしいひとときですよ。シカゴではこういうことがたくさんあります。室内楽のグループはいつも、現存の作曲家を舞台に呼んで、彼らの音楽をやってます。

 

KH:わたしがデトロイトに住んでいたとき、わたしのお気に入りのプロジェクトだった。わたしの妻といっしょに、室内楽のソサエティを設立したんだ。

 

BD:あなたがこれまでにやってきたことのすべてに、お礼を言わせてください。そして世界中の聴衆との冒険談をしてくれたことにも感謝です。

 

KH:わたしもとても楽しかったよ。

カール・ハース bioつづき

カール・ハース(1913年~2005年)

ドイツのシュパイヤー出身で、母親に初めてピアノの手ほどきをうけた6歳のときから、音楽を愛しつづける。12歳のときに、友だちとピアノトリオを結成。ナチの台頭で家族とともにアメリカに移住。デトロイトでピアノを教え、ニューヨークまで通って伝説的ピアニスト、アルトゥル・シュナーベルの教えを受ける。1950年にデトロイトでブロードキャスターをはじめ、デトロイト交響楽団のプレビューを毎週放送していた。すぐにカナダ放送協会が、番組で音楽について語ってくれるよう依頼してきた。1951年には、デトロイトの放送局が毎日の番組を申し込み、「Adventures in Good Music」がスタートした。

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