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小さなラヴェルの
​小さな物語

作:コンガー・ビーズリー Jr. 絵:たにこのみ

訳:だいこくかずえ

いざ、スペインへ! ~ いたちの襲撃  [7 - 12]

 

 すぐにモーリスはパリをあとにし、つづく草原、谷また谷、フランス中部の村から村ををフワリフワリと飛んでいきました。こんな高いところを飛んだのは過去に1回だけ、ブラジル人の友だち、アルベルト・サントス=ドゥモンの操縦による気球に乗ったことくらいでした。そのときモーリスは今よりずっと若くて、そのような経験はとてもスリリングでしたが、いま感じているワクワク感とは比べようもありません。当時はパリの周囲を飛びましたが、今日はスペインに向かっているのです。

 スペインです!

 その言葉の響きは、モーリスをニヤリとさせました。屋根の上にはヤギが見え、土ぼこりの道には牛が、丘の斜面にはブドウ棚があります。黒い服を着た地元の女性たちが、頭に水瓶を乗せて歩いています。

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 するとびっくりするようなことが起きました。乗っている泡が下降しはじめたのです。午後のさなかのことで、弱々しい冬の太陽は陰気な雲のうしろに隠れていました。あまりに興奮していたので、モーリスは食べるものを持ってくるのをすっかり忘れていました。もうお腹がペコペコです。お茶を持ってくることだってできたはずです。
 
 モーリスの乗った泡は、ロワール渓谷の乾いた地面に向けて降りていきました。どんどん低く、低く、、、どんどん速く、速く、、、泡の中に閉じ込められたまま、モーリスは指で泡の壁面をつかみ、、、ただただ通り過ぎる木々を見つめ、そして硬い地面に迎えられました。

 

 泡というものは永遠に飛びつづけるものじゃないと知るべきだったな、とモーリスはため息をつきました。

 

 モーリスはスペインのことを、母親のことを考えました。それからピアノのこと、タルのこと、窓辺にやってくる鳥たちのこと、それからフィリッペ・バザンや音楽が聞こえるフィリッペのレインコートのこと、アンドレ・ブションのこと、巨大なオリーブの実のような目をした音楽評論家のこと、そして最後に(楽しい想いで)アネット・グレトフとその素晴らしい泡ふきの才能のことを考えました。
 泡は途中まで連れていってくれましたが、スペインまでではありませんでした。

 

 泡はパンと地面にあたり、跳ねました。そしてまた地面を打ち、また跳ねあがりました。3回地面にぶつかったとき、泡はパンと口ををひらき、モーリスは転がり出ました。

 

 「ああー!」 モーリスは声をあげました。
 衝撃でモーリスの呼吸がとまりました。目の前がまっくらになりました。


8

 モーリスがやっと意識を取り戻したとき、もうあたりは暗くなっていました。おそるおそるこっちの手、あっちの足と骨が折れていないか確かめました。からだ中が痛みましたが、がまんできないほどではありません。

 

 空気は冷たく、湿っていました。すぐにでも身を守る場所を見つけないことには、咽頭炎になってしまうと思いました。13歳の女の子の唾でできた泡に乗ってスペインまで行くなどという愚かな試みで、苦境に陥ってしまったのです。次の機会には、さっさと鉄道の駅に行って、列車に乗り込むことでしょう。その方が安全ですし、さらにはお腹がすけばいつでも食べられ、温かな毛布の中で眠れます。
 
 モーリスは歩きに歩いて、ホルスタイン牛がたくさんいる牧草地に着きました。そこにいるのがホルスタイン種だとは知らず、牛だということすらわかっていませんでした。あたりはもう真っ暗で、大きな岩だろうと思ったのです。

 

 ピレネー山脈のふもとの小さな村で生まれたとはいえ、モーリスは野外のことについてあまり知りませんでした。モーリスにとって戸外でハイキングといえば、リュクサンブール公園の中を歩くことくらい、ありんこが遊歩道をチョコチョコと歩いたり、ハトが砂利をつついているのを見るくらいでした。


 「ずいぶん遅いんじゃないのかい、坊や」

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 モーリスは胸がドキドキしました。現れたのはホルスタイン牛の白くもっさりした顔でした。

 「ああ、そうそう、そのとおり」

 「あんたみたいなのは、この辺じゃみかけないなあ」と牛。「へんな服きてるし。どっから来たん?」

 モーリスはここまでの話をしました。そして腹ペコだと伝えました。

 「なんともしようがないわね」とは牛の答え。「あたしたちは草とか麦をたべるの、あんたには固くて消化できないと思う。ミルクはもうないし。2、3時間前に乳をしぼられたからね。朝になれば出るけど。スペインっていうのは、きいたことないわね。いったいどこにあるのやら。あんたは困っているみたいね」

 

 モーリスは胸がせつなくなりました。
 「あたしたちの中には、むこうの柵のそばでねるものもいる、あそこの木が生えているところ。食べるものはあげられないけど、温かにしてはあげられる。今晩はすごく冷えるからね」
 「ああ、なんてことだ」とモーリスは叫びました。泡に乗ってスペインまで飛ぼうなんて、ばかなことをしてと自分に腹をたてました。
 とはいえその晩は、幸せな締めくくりになりました。ミニョン(その牛の名前)はモーリスを柵のところまで連れていって、友だちみんなに紹介しました。そこにいた牛たちはみんな友好的でした。2頭の牛が横にならび、温かな毛に囲まれたすき間にモーリスは横になり、疲れた手足を伸ばしました。いい匂いが牛たちの柔らかな肌から漂ってきました。モーリスはまぶたを閉じました。

 

 「あー、ひとつだけ」とモーリス。「あなたたちのどっちかが、真夜中に転がるなんてことは?」
 もしそうなったら、と考えただけで息がつまりました。牛たちはモーリスを豆粒のように押しつぶしてしまうでしょう。
 「だいじょうぶ」とミニョンは確約しました。「あたしたちホルスタインはちゃんと行儀よく熟睡しますから」
 モーリスは中折れ帽を顔に乗せると目をとじました。

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9

 次の朝、ミニョンはモーリスに自分の乳をくれました。それで少し空腹がおさまりました。牛たちは夜の間、身動きしませんでした。それでモーリスはぐっすり眠れました。温かな湯につかって、服を着替え、卵三つのオムレツとカンボジアのスパイスを効かせたお茶、と家にいるときの自分を思いました。
 空には雲がいっぱいで、雨が降りそうでした。お風呂などどこにもなく、卵三つのオムレツの望みなど、羽がはえてどこかに飛んでいくことくらい(スペインへ、あるいはパリへ、どこであれ)、あり得ないことでした。
 モーリス・ラヴェルはふつうの作曲家ではなく、またふつうの人間でもありませんでした。勇気とガッツがあり、膨大なエネルギーの蓄えがありました。行動すれば、良いことが起きると知っていました。大事なことは南にむかって進みつづけること、、、正確には南西に、、、とても時間がかかるでしょうが、、、ピレネー山脈の紫色が見えてくるまで前進するのです。

 

 モーリスはミニョンと友だちの牛たちにさよならを言い、柵の下をとおって、牧草地を出発しました。
 太陽は雲のかたまりの向こうに隠れていました。それで自分がどっちに向かっているのか、よくわかりませんでした。湿気をおびた風がモーリスの顔に吹きつけました。正しい道を進んでいると望むばかりでした。
 牧草地の端までくると、そこは森でした。木々が密集して生えていて、藪や低木のかたまりがあちこちにありました。枯れ葉のじゅうたんと小枝が散らばり、どんよりとした光を浴びて、面白いモザイク模様をつくっていました。モーリスは不安な気持ちでした。弱った気持ちを押し上げようと、自作曲『スペイン狂詩曲』を口笛で吹いてみました。世界中のコンサートホールで演奏されてきた曲です。

10

 そのイタチはしばらくモーリスを見ていました。普通のイタチでミルトンといい、ウサギやリスを探して森をうろついていました。ミルトンはいろんな動物の違った肉の味を楽しんでいましたが、いま目にしているような生きものは初めて見ました。泥のついたフランネルのズボンにツイードのジャケット、さび色のネクタイに洒落た中折れ帽の小さな人間。

 ミルトンは自分の前歯をひとなめしました。ミルトンはめったにホルスタインに手を出すことはありませんでした。ときどき走っていって、ひづめの上の柔らかな肉に歯を沈ませて、血の味を楽しむくらいでした。しょっちゅうやるのは危険でした。牛たちはたいてい集団でいるからです。イタチが草の間をコソコソ歩いているのを見つければ、ひづめを鳴らし、鼻息あらく、ドシドシとやって来て踏みつけることができました。
 (それは最終的に起きたことですが、別のお話でのこと。ミルトンはほしいものを見つけました。モーリス・ラヴェルが森の中を注意深く歩いているのを見て、ミルトンが何を思ったかは想像できます。)
 ミルトンは、モーリスを美味しそうな食べものだと考えていました。ハンサムなその顔、ひと目をひくバスク風の鼻、ミルトンはそれをひと口で噛み切りたいと思いました。

 

 モーリスは行く手の木々の間に、チラチラと光が見えたとき、少しホッとしました。薄暗く気味の悪い森の中にいたからです。モーリスは気持ちを盛り上げようと、別の曲を口笛で吹いてみようとしましたが、くちびるが凍えていました。ミニョンがくれたミルクの栄養も使い果たし、空腹感におそわれていました。すぐにでも固形物を食べないと、意識を失いそうでした。

 

 ミルトンがおそってきたとき、モーリスは森の端についたところで、どんよりした空を見上げていました。背後で枯れ葉が音をたてるのを耳にして、モーリスが振り返ったとき、何かが屈むんだと告げました。それに従ったのはいいことでした。ミルトンが口を大きくあけ、モーリスのすぐ脇を通りぬけ、ツイードのコートの左袖を噛み切りました。

 恐怖の警鐘がモーリスの喉もとで鳴りました。ミルトンはふわりと舞い降り、くるりと顔をモーリスに向けました。ミルトンの表情は残忍でゾッとするものでした。モーリスは驚いて後ろにさがりました。ちぎれたジャケットの袖が、冷たい空気の中ではためいていました。頬をふくらませて自信ありげに笑うと、ミルトンは近寄ってきました。モーリスはなんとか間をもたせていました。ちっちゃな人間には、どこにも逃げる場所がありません。もし走り出せば、ミルトンは飛びかかって、頭を食いちぎるでしょう。

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 モーリスは唾をのみこみ、またのみこみました。泣き叫ぼうとしましたが、モーリスの喉はカラカラに乾ききっていました。母親の思い出、ピレネー山脈の記憶が目の前でちらつきました。つまりこれが死に直面したときの状態なのです。さて、なんとかうまくやらなくては、、、

 

 モーリスは枯れ葉の中をジリジリとさがるのをやめ、食いちぎられたジャケットの袖を引きちぎり、あごを突き出しました。誰かが見ていたら、小さな男が途方もない勇気を振り絞っていると思ったことでしょう。

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 ミルトンはふさふさした長いからだを固く巻くと、さあ標的に飛びかかるぞ、という姿勢を見せました。ミルトンは相手をやっつける前、自分の餌食となるものの顔をじっくり見るのが好きでした。太い前足を期待でピクピクさせました。鋭いつめをうずうずさせました。そして黒いくちびるを尖った舌でひとなめしました。

 

 あー、これはおいしそうな食べものです、ミルトンがこれまでに食べた中で一番の味かもしれません。モーリスの顔に不安や恐れの色が見えないので、ミルトンは少しばかりイラつきました。「オマエは死ぬんだよ、お仲間」とミルトンは勝ち誇ったように言いました。

 

 「わたしはモーリス・ラヴェルだ。どんな運命が降りかかろうと、心の準備はできている」

 

 モーリスは突然、何年か前に書いた美しい歌を口ずさみはじめました。砂嵐に巻き込まれたアラビアの王子が、アッラーの神に助けを求める歌です。

 

 もうたくさんだ、とミルトンは行動を起こすことにしました。短く頑丈な脚をつかって、モーリスの顔めがけて飛びかかりました。
 

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 その途中で、ミルトンは左目に、何か鋭いもので刺されたような激しい痛みを感じました。バランスを失い、叫び声をあげながら、ミルトンはモーリスを飛び越えて、枯れ葉の上にドサリと落下しました。左目がくり抜かれ、血だらけのひどい状態です。さらなる鋭いものに頭を突き刺さされたので、ミルトンはまた大声で叫びました。

 モーリスはびっくりしていました。モーリスとミルトンの間には、シカ革のジャケットに耳あてつきの毛皮のキャップをかぶった、痩せこけたハトが立っていました。ハトは羽を広げると、凄みをきかせてミルトンの方に向かっていきました。

 ミルトンは激しい苦痛におそわれていました。枯れ葉の上をゴロゴロと転がりまわっていました。「ああっ! イダイイダイ!」と叫んでいます。「あああああああーー」

 「もういっぽうの目もやられたくなかったら、立ち去るんだな」とハトは脅しました。

 傷を負った頭をふりふり、ミルトンは森の中へと逃げていきました。

(とはいえ、森の動物たちを今まで以上に不安に陥れるかもしれない目一杯の復讐心を抱えて、ミルトンはホルスタイン牛の恐ろしいひづめでやられてしまうまでは、なんとか生きていくのでしょうが)

 

 「だいじょうぶ?」 ハトがモーリスに聞きました。
 モーリスのひざはカスタネットのようにカタカタ鳴っていました。「だいじょうぶ、だいじょうぶ」とモーリス。

 「こういう生きものが嫌いなんだ。大きなネズミを思い出してしまうよ。がまんならない生きものがいるとしたら、それはネズミだね」
 「どう、、、どうやってお礼を言ったらいいのか」
 「どうということはないですよ。あなたが困っているのを見て、飛んでやってきたんです。罪のない人が、いやらしい小さなイタチどもにやられているのが、大嫌いなんでね」

 「そりゃよかった」 モーリスは大きく息をつきました。「うれしいよ、、、」 そして疲労と空腹のため、意識を失いました。

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